た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

女人。サンプルB

2004年10月31日 | 習作:市民
 見つめる、という行為それ自体が、その女性にとっては一つの駆け引きになっている。あまり幸せな家庭に育ったのではないかもしれない。何気ない日常の眼差しの中にさえ、警戒や防御や誘惑や攻撃や、そしてなによりほとんど無意識に見境なく発してしまう愛情豊かな女性性─────それを、この人は幼いころから、自分の欲望のためよりは、むしろ自分の身を守るために使用してきたのだろう、いかなるときにも、いかなる「他人」に対しても─────といったものが、涙のように溢れている。大きな眼である。不遜でどこか何かを諦めたような目つきである。ほとんど正視できない魅力である。瞬きするたびに、もう見つめるのをやめそうな気配がするのだが、彼女はなかなかどうして見つめることを止めない。

 喫茶店で私は彼女と向かい合わせに腰掛けた。我々二人の間は、実際には二つのテーブルと汚らしく禿げ上がった親父のうしろ頭と競馬新聞と紫煙によって隔てられていたのだが、それでも彼女は頬杖をだらしなく突いたまま、しばらく私を見つめていた。瞬きを何度かした。それから面白くもなさそうに飲み干したアイスコーヒーのストローに顔を戻した。
 私は席を立った。支払いをするため彼女のテーブルのそばを通り過ぎたとき、彼女が遠目よりもふくよかな体をしていることに、私は気づいた。その上小柄であることにも気づいた。彼女は老婆のように背を丸めていた。その姿勢がなぜか、支払いを済ませてその店を出たのちまでずっと、私には、彼女にとても良く似合っているように思われた。
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女人。サンプルA

2004年10月31日 | 習作:市民
 可愛い女の子である。どれぐらい若いのかわからない。わずかに離れ気味の小さな双眼が小鹿のように形良い。小ぶりながら筋の通った鼻、美味しいものを常に頬張っていそうな頬、引き締めるとえくぼの出る赤い唇。丹念に櫛とかれた前髪がやわらかく広がり、彼女の知的な前頭部と負けん気の強い眉毛を隠す。神様がやさしい手で捏ね上げたその小さな顔は、ひょっとして世界一の美人かもしれないし、いやしょせんどこの街角でも日曜の昼下がりには、友達とたわいないことで笑っていそうである。
 彼女に目立つものは何もない。何一つ目立たないほどに調和が取れているところがどうにも可愛い。


 日曜の昼下がりに、駅前のスクランブル交差点で彼女を見かけた。今後、ときどき人間のサンプルをここに書き留めておこうと思った。そうすることでなんとか失わないで済む輝きがあるはずだ。街の中にか、あるいは私の心の中に。
 
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働きすぎとは

2004年10月29日 | Weblog
 働きすぎという感覚は、我々の常識の中に「私生活」という観念がもぐりこんで以来生じた違和感だと思います。「私生活」という考え方のなかった時代、それがどのようなものであるか想像することは予想外に難しいでしょうが、人々は自分が働きすぎだと思うことはなかった。日曜日もなければ休日もなかった。疲れたり休息したりはあったろうが、働いている、という感覚すら、現代の我々のものとは異なっていた。働くことが、すなわちそのまま過不足なく、生きることに重なっていた時代のことです。
 
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秋晴れ

2004年10月22日 | Weblog
背筋を伸ばしたくなるような秋晴れの一日である。昨夜の酒量を少し後悔する。顔をせっかくだからいつもより丹念に洗う。部屋のごみを大袋に入れて外に出したいと思うが結局外に出さない。背筋を丸める。あくびをする。
 一日は残酷な季節らしく、もう午後を回っている。


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鼻毛問題

2004年10月22日 | Weblog
ベランダで 鼻毛の長さを 測る秋
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都会では鼻毛が伸びるという

2004年10月15日 | Weblog
 都会では鼻毛が伸びるという俗説があり、私はつい最近まで、まるで本気に取り合わなかった。その説を紹介してくれた友人がいかにもはったりをかましそうな関西人だったせいかも知れない。しかし東京に出て一年余り、私は自分の鼻毛が梅雨をたっぷり浴びた芝生のように猛然と伸び始めたのに気づかずにはいられなかった。
 ニ三日鏡を真剣に見ていないと、人に会ったときに「まあちょっとあなた鼻の下にひげが生えてますよほほほ」と笑われる恥辱を味わいかねない。空気が汚いと鼻毛が伸びるのは本当らしい。何とけなげな自衛本能ではないか。しかしけなげはけなげとして、天才バカボンのように(確かあいつはそうだった)鼻毛を黒々と見せて人に会うのはさすがにいただけない。まったく間抜け面である。いかんいかん。
 私は鼻毛を気にかけるようになった。それはそれで困ったことも出始めた。私はふと気が緩んだときに、鼻毛まで気を緩ませて遠慮会釈もなく鼻腔から顔を覗かせてないかと鼻に手を当て、あまつさえは伸びかけた鼻毛をやっぱりお前伸びてきやがったのかこいつめ、とつまんで引っ張る癖がつき始めたのである。これはこれで非常に恐いことである。
 人が向こうから歩いてくる。女の人である。きれいな人である。いかん、ひょっとして自分は鼻毛がちょび出ているんじゃないかと鼻に指を入れる。きれいな女の人がそんな私の仕種を見て、眉をひそめて口に手を当てる。
 いかんいかん。

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野分のあと

2004年10月10日 | Weblog
 「非常に強い」とどのテレビ局も再三再四言っていた台風が宵に東京を通過した後、小道を友人とぶらぶらと歩いてみた。街路樹の枝葉が道端のそこここに千切れ落ちていた。それらの残骸は、静謐な夜に過ぎ去った嵐の物凄さを語り伝えんとしていたが、むしろ都会の排気臭までも台風が持ち去ってくれたようで、澄んだ空気のすがすがしさのほうが際立って覚えられた。道行く人も車もなかった。台風の余韻に皆恐れをなしてか、もともと夜半には往来の途絶える通りなのか、いやその両方なのだろうと歩く心に思った。
 街灯が明るいですね、と友人がつぶやき、私も、ええ、とうなづいた。

 我々二人は道沿いの公園で一服することにした。樫のテーブルとベンチがあったので、尻が濡れないように買い物袋を敷いて腰掛け、ペットボトルの茶を飲んだ。我々はテーブルに落ちる自分たちの影を眺めたり、道の向こうのつつじの葉が艶やかに光るのを眺めながら、さまざまなことを語り合った。まったく、月夜と見まがう明るい街灯の下であった。

 今よりもう少し若いころは、ずっとこんなことをしていたような気がしますね、と友人は言った。朝起きたら公園に寝転びに行って、一日中、おっちゃんたちとしゃべってたりとか。
 学生のころですか、と私は訊き返した。
 いいえ。前の仕事を辞めて、今の仕事に転職する間のことです。
 ああ、なるほど。
 過ぎ去った時間ですよ。

 私は一旦締めたペットボトルのキャップをまた緩めた。
 そういう時間の過ごし方は、決して間違っているとか言えないもんですね。
 友人は答える代わりに、盛大なくしゃみをした。 
 
 私は一口の茶を含んで、再びペットボトルのキャップを締めた。
 わからないですね、と私は独り言のように言い添えた。
 ええ、わからないですね、と、友人は頬杖を深くついた。
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鎌倉にて

2004年10月09日 | Weblog
 わたしと帰って下さい。と雨に前髪を濡らした女は言った。店主のいない駄菓子屋の軒先で、雨が止むのを待つのか電車が来るのを待つのか、何も待ちたくないのか、あるいはとてもとてもこの女を待ちつづけていたような生温かく混濁した気持ちになって、私はくしゅん、とくしゃみをした。風邪をひきますよ。と私は自分の心配を女に転嫁して、体裁を繕った。用心しなければ、この女を今ここで抱きしめてしまう。白いブラウスが濡れてなで肩を透かし見せているのから、私は目をそらせた。
 わたしと帰って下さい。と女は繰り返した。
 どこへ。と私の声でないようなかすれ声。
 この駅の向こう側の、坂道にある海辺の家。
 行こう、と私は思った。行こう。この冷たい霧雨に傘は持ち合わせてないけれど。次の電車を逃したら、もういつ電車が来るのか、わかったものではないけれど。
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