た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 159

2009年07月26日 | 連続物語
 藤岡は不届きにも、志穂の両脇を抱えた。引き摺ってでも連れ去ろうという算段である。彼女の両脇を抱えるなど、誠に不届き千万である。
 「離してください。嫌っ!」
 「失礼ね」
 氷に閉ざされた海のように重く冷たい美咲の声が、彼らの動きを止めた。痩せた手を固く握り絞めている。興奮を必死で堪えているのだ。
 「あなたは、あなたは何もわかってない。あなたは何一つわかってないわ。死んだらいいと。ええ。死んだらいいって、私も、いつか思ったことがあるかも知れない。でも、死んだらいいと、心の中で思うのと、実際に死なれるのとは、全然、全然違う問題なのよ。どんなに嫌っていても、やっぱり自分の片割れなのよ、夫というものは。死なれるってことは、失うことなの。失うことなのよ。苦しいの。ちょっと驚くぐらい苦しいの。そう。夜寝る時も、朝目覚めるときも、何をしてても、何もしていなくても。好きだったとか嫌いだったとか関係なくて、愛していたとか憎んでいたとか、そんなことまったく関係なくて、どうしようもなく苦しいの。自分がまるで、半分死んだ気持ちになるの。それが夫婦というものなのよ」
 砂利の音。
 「私の母は、死んで苦しむ人もいませんでした」
 「あなたのお母さん? 生きているとき、すでに私を苦しめたじゃない」
 それに対する志穂の返事は、言葉にならなかった。ほとんど叫び声であった。藤岡が強引に引き摺っていったせいでもある。対話は崩壊した。志穂と藤岡の二人は泥地を転がるようにして門の向こうに消えた。
 志穂が激昂するのも当然である。美咲の夫婦論は良しとしよう。それには不覚に私も涙しかけた。しかし最後の台詞はどうだ。あまりにひどい。雪音が生前お前を苦しめていただと? どういうことだ。どういうことだ美咲。我々の不倫が、お前には明々白々だったということか。お前は、一体、いつから雪音の存在を、私の背後に嗅ぎとっていたのだ。
 門の向こうで、タクシーのドアが激しく閉まる。
 美咲と大仁田は寒さに震えながらその音を聞いている。
 タクシーがゆっくりと門前に姿を現した。後部座席の窓が開く。「待って、運転手さん、止めて」「やめなさい、こら、運転手行ってくれ!」車内はもみくちゃである。両手で押さえつけようとする藤岡に抵抗して暴れ回りながら、志穂が車窓から顔を見せた。髪の毛が無残に乱れている。
 不倫し、別れ、頓死した母親の遺した娘は、刺すように玄関を睨んだ。
 睨む先には、夫に裏切られ、先立たれた妻たる女が、体を固くして立つ。
 不意に志穂が笑ったように私には思えた。泣きそうになったのかも知れない。
 「裁かれるのは、私だけじゃないわ」
 日は完全に没した。タクシーが去り際に起こした風で、残った者はそうと知らされた。


(夏休みをはさんで、いつかまたつづきます)
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アイナントカハナイケレド

2009年07月24日 | Weblog
心に音楽の鳴る者は幸いである。
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7月15日

2009年07月15日 | essay
 東京から地元にUターンするという後輩が松本まで遊びに来てくれる。なぜかネクタイの締め方の話になり、私がもう十年以上も間違った締め方をしてきたことを指摘された。私の締めて見せたネクタイの結び目を見て、まるで太巻きだと、後輩はけらけら笑い転げた。なるほど、言われてみれば太巻きのようである。キャリアに対する自信はこのような些細なことで簡単に瓦解するのである。
 飲み明かした翌日、温泉場へと車を走らす。予定していた場所に入れず、先へ先へと進むうちに、いつしか県境を越えて、お隣岐阜県の平湯温泉までたどり着いた。入湯料はこころざしで、という露天風呂に浸かる。一時間ほども呆然と湯気を眺めたあと、上って外に出ると蕎麦屋が目の前にある。「蕎麦にするか」「だって他に選択肢はないでしょ」と会話を交わしながら暖簾をくぐる。囲炉裏の煙のくすぶる合掌造りの古民家で、苔むした萱ぶきの屋根からは、前の晩に降ったという大雨の滴が滴っていた。蕎麦も蕎麦湯もすこぶる旨かった。
 選択肢はない方がいいときもある。ネクタイの締め方を後輩から教わったが、もう忘れた。職場では今まで通りの締め方をしている。後輩は地元で頑張ればいいと思っている。
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7月6日 カレーの話

2009年07月06日 | 食べ物
 自分はカレーが好きである。カレーならいつでも食べられると思っている。そこがおかしい。自分のようなカレー崇拝は世間に割合多いみたいだが、そうなると世間一般がおかしい。人間の体というのはいろいろなものを食した方が喜ぶに違いないのだ。ご飯やみそ汁が好きというのは、長年の習慣のなせる技だからまだわかる。なぜカレーなのだ。本当はもう食堂に入ってカレーなど注文したくないのである。馬鹿の一つ覚えみたいに思われるのは嫌なのだ。「今日はあっさりと蕎麦でも啜るかな」とか、「香ばしい匂いがするからヒレカツにしてみよう」とか、「この季節はサンマでしょう」とか言ってみたいのだ。もちろん自分も大人である。そういうものを注文するときもある。しかし注文する端から、ああ、やっぱりカレーにしておけば良かったかあと内心後悔するのである。また逆に、カレーを注文した場合でも、ひと匙口に入れた途端、ああ、このわかりきった味をどうして自分はこんなせっかくの旅先のレストランで注文したのだ! とやっぱり後悔するのである。こうなるともはや、カレーに対して憎悪の念すら湧く。しかしカレーは、憎悪の念が湧いても口にできるのである。不思議である。
 結局、刺激なのだろうか、と推測する。複雑に絡み合い畳みかける香辛料の刺激が、胃袋と脳に心地よい満足感をもたらすのだろうか。何しろ現代はお金を出して刺激を得る時代である。いやいや現代まで話を広げる必要はないか。
 ところで今日の昼は外食する必要があり、ラーメンを食べた。ラーメンもなかなか魅力的で魔力的な食べ物である。しかしどうしてもカレーには敵わない。ラーメンはいろいろなラーメンを試してみたくなるが、カレーはカレーでいいのである。
 底が知れない。こういうのを相手にして書くと収まりがつかなくなるから、もう止めにしよう。
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7月5日

2009年07月05日 | essay
 一週間分の──いや、仕事のない日曜日を迎えるのは三週間振りか──疲労を朝十時の布団に横たえる。といっても土曜の夜から寝てばかりいるわけだから、眠いわけではない。現に夜明けに何度か目覚めた。しかし今日は何としてでもお昼まで寝てやろうと思っている。さすがにこのところ働き詰めだ。三十代も後半に差し掛かり、無理な生活に耐えるバネは確実に硬化してきている。このままでは体が危ない。眠れなくとも大の字になって目を閉じるべきである。倦怠感は水気を含んだ流木のように全身に重くのしかかっている。この感覚だけは何とか今日中に払拭せねば。
 窓は数時間前に妻が開けたままで、白いカーテンが風にそよいでいる。
 人間はとことん疲れるまで疲れる動物である。そんな事を考えてみるが、すぐに打ち消す。どう見ても、野生動物のほうが日々、生きるか死ぬかの瀬戸際の中で体を酷使しているだろう。
 少しだけ言い換えてみる。人間は、自らすすんで、とことん疲れるまで疲れる動物である。
 馬鹿馬鹿しい。私は寝返りを打ち、そよ風に背中を当てながら再び朦朧とした時間に身を委ねる。

 人間は、疲れた感覚がないと、それはそれでどこか不安になる厄介な動物である。
 ふん。
 おやすみ。
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