た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

雨雑感

2016年09月23日 | essay

  連日の雨である。止んだと思っても、シルクを垂らしたような細かい霧雨が降っている。これはなかなかに気持ち良い。宵闇の霧雨を突いて、肩を濡らしながら飲みに出かける衝動に駆られるが、本降りになると帰りが困るなと思って二の足を踏んでしまう。そういう判断にまた、年齢を感じてしみじみする。

  朝の通勤途中に女鳥羽川を覗くとたいそうな水量である。小学生のころ水彩画の水入れが必ずなったような、どうにも救いようのない色をしている。清濁併せ呑むという言葉があるが、清も濁も一緒くたに呑み込むと、結局濁になるのだ。すべての道は濁に帰する。混沌は偉大である。

  天気予報は今日も雨。さすがにこう湿り気が続くと、晴れ間が恋しくなる。せっかくの雨だから一句でもひねれば憂さ晴らしになるが、かび臭い頭では振っても出てこない。仕方ないから、温かいコーヒーでも淹れよう。

 

 

 

 

 

 

 

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秋雨一句

2016年09月19日 | 俳句

  ひととせを  重ねてうがつ  樋(とい)の雨

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2016年09月15日 | essay

  ある男がいた。元来が陽気な性格で軽口に止めどがなく、人と会えば場を賑やかにするのが常であったが、どうしても相手の気持ちを察することが苦手であった。相手が話したいことを差し置いて己一人でしゃべり過ぎ、相手の話に耳を傾けるつもりがいつの間にか己の話題にしてしまい、それでいて相手の不満に気づかなかった。それで、うわべは楽しく語り合っていても、密かにひんしゅくを買うことが多かった。最初のうちは皆、面白いやつだと寄ってくるが、やがて彼の独りよがりが鼻につき、一人、二人と彼のもとを去っていった。

  男は人々が自分から離れていくことを悲しみ、人々を恨んだ。そして誰も自分のことをわかってくれないと感じた。被害妄想に苦しみ、だんだん陰気な性格に変わっていった。

  ある男というのは、実在の人物ではなく、一つの心情である。誰でもそれを持ちうるし、その大きさ程度は人によりさまざまである。会社という集団や、国家という組織がこの心情を有しても不思議ではない。

  世の悲劇というものの大抵が、ここに端を発しているとしても、これまた、あながち不思議ではない。

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2016年09月12日 | 短編

   酒場で夢を語る男がいた。夢は大きく、国どころか世界を巻き込んで果てしがなかった。居合わせた者は皆心惹かれ、男の言葉に同じ夢を見て酔いしれた。男の語る夢は貧困を解決した。憎しみを和らげ、友情を拡げた。なるほどそうなれば世の中はもっとずっと生き易くなると、耳を傾けた誰もが思った。そこへある女が口を挟んだ。「で、あんたはその夢の実現のために、どんなことをするの」夢を語った男は口をつぐんだ。

   次の酒が黙って男のグラスに注がれた。

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田んぼアート

2016年09月08日 | essay

  田んぼアートというものがある。色の違う稲を植えて絵を作る。それを少し離れた高いところから眺める。マスゲームの植物版みたいなものだが、設計図次第ではかなり精巧な絵ができる。

  ぜひ一度見てみろと、とある知人に勧められた私の知人に誘われた形で、つまりかなり間接的な動機ではあるが、車を走らせて梓川まで見てきた。おりしもまつもと大歌舞伎があり、それを記念した歌舞伎の演目の田んぼアートが見られるという。

  三百円を払い展望台に登ってみると、なるほど新聞の写真で見た通りの絵が広がっている。なかなかに見事である。四、五分ほど水田を眺めてから展望台を降りた。

  帰路、少々微妙な気分になった。

  確かに、「なかなかに見事」であった。だがこの言葉がなかなかに曲者(くせもの)である。期待して見るとこんなものかと拍子抜けするが、あまり期待せずに見ると、お、意外とすごいじゃないかと感動する。そういう危うい位置にあるのが、「なかなかに見事」である。そしてその類のものは、よく観察すると巷(ちまた)に溢れている。

  情緒ある町並み、おいしいお店、おしゃれな服、面白い小咄(こばなし)。これらは概して、あまり期待し過ぎるとその期待値のせいで物足らなさを感じてしまう。怖いことである。人間もそうかも知れない。ほどほどの期待値で付き合うほうが、がっくり来ることが少ない。

  田んぼアートは確かに見事である。ただし、あくまでも日常にぽっと出た異質さ、という点で見事である。青一色の水田地帯に、突如出現した遊び心あふれる大仕掛けだから、素敵なのだ。ふと通りかかった人が、な、な、なんなんだこれは!とびっくりするから素敵なのだ。問題は、そういう素敵さを、この資本主義社会はすべからく集客と収益の物差しで測ろうとする。そうすると、見物人も「客」として来て損得勘定で見物して帰っていく。「ああ、これなら三百円の価値があった」「いやなかった」と。

  高度に磨かれた芸術作品などは別として、世の中にあるのは「なかなか見事」なものが主流である。それらは見る側の気構え次第で、期待以上にも期待外れにもなりうる。願わくば、おお、なかなか、と、その都度感動を覚えたいものである。

  そのためには、あまり宣伝や前評判に踊らされないことだろう。

  写真を撮ってくればよかったが、カメラを忘れた。負け惜しみを言えば、それくらいがちょうどよいのだ、この話の流れでは。

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戸隠三人衆

2016年09月02日 | essay

 平均年齢50の遊び仲間三名(私はその平均年齢を下げている方)が夏の終わりの戸隠を訪れる。

 それも、電車とバスを使って片道二時間以上かけた旅である。さらに奥社まで徒歩で往復一時間。平均年齢50の遊びとしてはなかなか若々しく健康的である。ただし朝八時発の電車の車内から缶ビールをぷしゅぷしゅ空けての旅だから、実は年相応に不健康である。

 そんな不謹慎な三名も、奥社の参道にそびえる樹齢四百年を超える杉並木は優しく心地よく迎えてくれた。なんと幸せな気分に包まれたことか。戸隠の神々は実に寛容である。そう思いながら入口のバス停まで戻ったら、三人の中の一番年長(つまり平均年齢を上げている人物)が、酔っぱらって意味もなくバス停裏の崖をよじ登り、滑ってズボンを泥だらけにした。

 神々はちゃんと戒めることも忘れない。

 

 

 飲み過ぎましたが、楽しみました。合掌。

 

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