た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

隣人

2008年02月18日 | 習作:市民
 私たちは綺麗な夜を送ることができます。ええと、飲み干して下さい。飲み干しましたか。飲み干したらグラスを傾けて下さい。もっと。もっと。ほらね。それでも落ちない氷のように。そうなんです。グラスを傾けてもなかなか落ちない氷のように、私たちは綺麗な夜を送ることができます。
 でもあんまり傾けると氷も落ちちゃいます。カウンターも濡れます。ひょっとしたら袖まで汚れるかもしれない。ここのチーフには叱られるでしょう。リスクですね。そのリスクを意識しながら、どこまで傾けても氷が落ちないでいられるか。これはゲームのようなものです。私たちはこのように綺麗な夜を送ることもできるんです。

 ふう。

 でも人生で一度や二度、思いっきり氷をぶちまけたいことってないですか。グラスを逆さに振って、ああグラスなんてしょせん空っぽなんだと実感したくなることってないですか。グラスに残しておくべきものは何一つとして無かったんだと。それからおもむろにグラスを手の平で粉々に砕いて、生温かい血糊の臭いを嗅ぎながら・・・。
 ごめんなさいね。少ししゃべり過ぎました。今夜も綺麗な夜を送りましょう。私はこれでも、飲み干したグラスの中をこうして旋回する空しくも大きな氷を眺めるのが、


割合好きなんですよ。
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一月の終わりの木曜日のバーで

2008年01月31日 | 習作:市民
 見えないんですか。あなたには。この雪が。私もう五杯目です。一人で飲み始めて二杯目かな。三杯目? 見えないんですか。あなたには。私の胸を翳るこの雪が。

 だが如何せん男性客の方は数十年前の桃源郷を夢見る唾液が今まさにダブルカフスに懸からんとしていた。こういうとき酒に強い女はえてしてあまりに多くのことを男に要求しすぎるのだ。

 私はあなたを置いては帰れない。あなたは私に帰られては、おそらく生きていけない。今日は随分冷え込むようね、マスター。そう。むしろ降った方が暖かくなるのに。マスター、あのね。向こうのあのお一人さん。私から一杯おごってあげて。嘘よ、嘘。はは。もちろん嘘よ。ごめんなさい。この人にお水のお代わりちょうだい。

  ☆   ☆   ☆

 あなた。ねえあなた。あなた。私あなたにとっていい女でいてる?
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箱を集め続けている男

2008年01月21日 | 習作:市民
 箱を集め続けている男に出会った。

 「私ね、箱を見ているだけで安心するんですよ」
 
 「箱です」

 「ははははは。変でしょ。どんな箱でもいいんです。ええ。箱でありさえすれば───でも蓋がなくっちゃいけません。蓋がないのは箱じゃない。私的にはね。蓋が閉じて中が見えなくなって初めて、私の望む箱なんです。とても安心するんですよ。自分の隠れ家を見つけたときの喜びと申しましょうかねえ。え? そりゃごもっとも。ほんとに隠れるわけにはいきません。だいたい、そんな大きな箱はいらない。小さくていいんです。え? 手の平サイズでも十分ですよ。手の平サイズで十分。マッチ箱でもいいんだけど、あれは中にマッチがぎっしり入っていると相場が決まってますからねえ。そう。何が入っているかわからないくらいがいいんです。外から見えない空間が中にある。暗闇です。その暗闇を想像するんです。ははは。変でしょ。それだけで安心するんです。ほんとに。心が落ち着くんです。そういう箱の外側を手で撫ぜるとね、とても幸せな気分になるんです。ほら、こんな風に撫ぜるんです」
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松本城

2007年08月05日 | 習作:市民
────風が心地いいでしょ?

────まあ、ね。でも、せっかくここまで昇ってきて、鉄格子に金網ってのは。

────せっかくの景色が台無しでしょ?

────うん。天守閣というより牢獄って感じがしますよ。

────ハト対策ですからね。

────ハト対策かあ。

────風は心地いいでしょ。

────風ね。さすがにね。

────やかましいでしょ。

────うん。すごいな。みんな床に座っておしゃべりしてる。

────いつもこうなんですよ。

────ここへはよく?

────よくというほどでもないですが。でも来ます。何ででしょうね。

────いつもこんな感じですか。

────景色がいまいちですからね。網と格子のせいで。

────確かに風は気持ちいいなあ。

────金網を見つめていると、人は多弁になるんです。

────ほんとですか。

────私はそう思っています。

 私と彼(名前はついに、訊かず仕舞いであった。)はそれから並んで腰掛けたまま、影が目に見えて伸びるまで沈黙した。

 風についての彼のこだわりを、それでも念のため問い質そうかと私が思い始めた矢先、彼は腰を上げ、「ではお先に」と言い残して去っていった。腕時計を見やれば、なるほどそろそろ閉館の時刻であった。
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脚を引き摺る犬

2005年10月19日 | 習作:市民
 瑛子の住む1DKのマンションの近くに、あまり利用する人のいない小さな公園があった。小さなジャングルジムと大人の腰までしかない鉄棒だけで、あとは滑り台をおくスペースすらない。脚を引き摺る薄汚れた犬を、瑛子はある日の夕方その公園の入り口で見かけた。
 コリーの雑種かしら。瑛子はコツコツとヒールの音を立てて歩きながら犬に視線を送った。彼女は滅多なことでは歩調を緩めない女である。キャリアウーマンとしての六年間が、そういう歩き方を彼女に染み込ませていた。
 汚い犬。車に轢かれたのかな。病気持ち?
 犬から半径三メートル以内に近づかないよう、彼女は緩やかに弧を描いてそこを通り過ぎた。
 犬はヤニの付いたどんよりした目で彼女を見送った。

 「遠く離れていることが問題じゃないの」
 瑛子は電話口で煙草に火をつけた。彼と同棲し始めたときにやめたはずの煙草。
 「遠く離れていてもあなたから伝わるものがあったの、ずっと。それが伝わらなくなっただけ。
 「え? 聞こえない・・・どうして? ねえ、風呂にお湯をはっている途中なの。水の音が聞こえるでしょ? え? もうそろそろお湯を止めなきゃ・・・ねえ、どうしてそういう言い方するの?」
 彼女は煙草を持つ手の親指の関節で目尻を拭った。
 「え?・・・そう。そうよ。よくわかったのね。最近また始めたの。落ち着きたいときとか。別にヘビーじゃないわ。ねえ、もうお湯止めなきゃ、もう溢れてるかも」
 急いた口調とは裏腹に、彼女は深く長いため息をついた。
 「何? 何が言いたいの? 煙草のこと? あなたに何の関係があるの。もう関係ないでしょ? ごめんなさい。そんな言い方ないわね。でもあなたわかってないでしょ。あのときやめることができたのは、奇跡だったのよ。すんごく辛かったの。ほんとは。できないって思ったの。それでも必死でやめたの。あなたそれわかってなかったでしょ? いいのよ、もうそんなこと」
 
 それから三日後、彼女は会社の帰りに再び、公園の奥を歩くびっこの犬に気づいた。遠目ではあるが、汚れ具合といい足の引き摺り方といい、あの犬に違いない。ただ今日は、犬の近くに地味な服を着た婦人が立っていた。婦人は後ろ手に小さなビニル袋を握ったまま、のっそりと地面を嗅ぎ回る犬を見守っている。あの人に拾われたのかしら。あんなに汚かったのに。
 瑛子はヒールに枯葉を潰す音を立ててそこを通り過ぎた。

 「だから、お願い・・・。そう。しばらく一人で考えさせて。お願い。うん・・・大丈夫、私が悪いんだと思う。あなたじゃないの。私の気持ちがどうかしちゃったの」
 瑛子は片手でずり落ちそうな毛布を肩にかけ直した。いつの間にか、夜が冷える季節になったと思う。
 「お願いよ。ねえ、お願いだから、そんな変な声を出さないで」
 彼女の顔から表情が消えた。ゆっくりと受話器を耳から離すと、じっとそれを眺めた。受話器を元に戻し、ベッドの上に毛布一枚でうずくまったまま、彼女は暗い顔でいつまでも宙を見つめ続けた。

 公園の葉っぱはすべて散った。びっこの犬に赤い首輪と紐がついた。紐の端を後ろ手に握るのはあのときの拾い主である。別の婦人と熱心に立ち話をしている。犬は彼女らにほっておかれて所在なさそうに地面を嗅ぎまわっていたが、体は以前よりずっと清潔になっていた。目のヤニも取れている。
 瑛子は犬のそばを通り過ぎたが、犬の方ではまったく彼女に気づいた様子はなかった。
 マンションに戻ると鍵を掛け、ダイレクトメールの束を手にした。上着を脱ぎながら留守番電話が一件も入ってないことを確かめ、脱いだ上着をベッドの上に放り、冷蔵庫のドアを開けて中腰になって中を覗いた。中にはほとんど何も入っていない。
 冷蔵庫の冷気を浴びながら、彼女は中腰のまましばらく決めかねていたが、ようやく缶ビールを取り出すと、鼻歌交じりにプルタブを開け、一口舐めるように飲んで、ちょっと苦い顔をした。缶ビールをテーブルに置き、ハンドバッグから煙草を取り出して火をつけた。流しの台に歩み寄って窓を開け、煙を吐くと、隣の建物と建物に挟まれた空間の向こうの通りを、あの地味な服の婦人が横切るのが見えた。そのすぐ後を、よたよたと、びっこの犬。
 彼女は窓を閉めた。煙草を灰皿でもみ消す。彼女は自分の部屋を眺めた。テーブルの上の缶ビールと部屋の鍵を眺める。ベッドに脱ぎ捨てられた服を眺める。彼女は両腕を強く抱きしめると、身を屈めて、床に座り込んだ。
 風邪をひきそうだと、彼女は思った。
  
 
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無題

2005年10月01日 | 習作:市民
 川沿いの喫茶店に初めて入る。割合広い。二階席の窓から薄川(すすきがわ)が見える。道路も見える。土曜日の夕刻なのに、みんな車で移動して忙しそうである。

 忙しくない人はここに来ているのだ。私の背後の席では、四十代の男女が家賃の話をしたり黙っていたりする。部屋の隅のテーブルでは六十代の女性が黙々とインベーダーゲームをやっている。あんなものがまだあったとは。壁際の席では、禿げた老人がスポーツ新聞に顔を埋めている。窓際の中央のテーブルでは、フォークに真っ赤なナポリタンを絡ませて、私がいる。インベーダーゲームの乾いた電子音が、古き時代に対する鎮魂歌のように、各々の頭の上を過ぎていく。
 

 知人が一人、職を離れた。外に出る前、パソコンのメールでそれを知った。だから喫茶店に立ち寄ったわけではないのだが、スパゲッティーを咀嚼しながら、私はずっとその知人のことを考えていた。半年くらい前から職場の風当たりがきつくなっていたのは聞き知っていた。職場は彼を求めなくなった。彼も職場に期待しなくなった。そのような雰囲気の中で、彼は我慢し続けた。半年間。
 人の生き方については、誰も評価できっこない。
 ふと顔を上げると、薄川はいつの間にか秋の宵闇に埋もれていた。
 誰も渡らない横断歩道の信号機が点滅する。
 評価なんかしてはいけない。

 『存在と時間』。昔ちょっとだけかじった哲学書の名前を思い出した。マルティン・ハイデガー。どんな内容だったかは忘れた。どうして表題だけを思い出したのだろう?
 私は運ばれてきた珈琲に口をつけた。熱い。
 
 存在と時間。私は珈琲カップで両手を暖めた。──そうか。存在と時間。これからぽかりと日常の空く彼。河川敷を車で急ぐ人々。ゲームの画面を険しい表情で見つめる初老の女性。足りない時間。持て余された時間。自分という限られた存在と、人生という限られた時間の間の齟齬(そご)に、どう折り合いをつけるか。それが、ひょっとしたら────
 飲み干したカップを置き、裏返された伝票を手に取って私は立ち上がった。ハイデガーがそんなことを言いたかったわけじゃない。

 外が急速に冷え込みつつあることは、窓の景色からわかっていた。河川敷を撫でる風はことに冷気を帯びていた。それでも私は、多少ふらつきながらゆっくりと自転車を漕いだ。橋のたもとの交差点で、曲がろうとする車にクラクションを鳴らされた。

 存在。時間。それにしても、何と折り合いのつきにくいこの二つ。

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明日を待ちながら

2005年09月25日 | 習作:市民
──どうして電話に出てくれないの?
コンビニエンスストアの明るすぎる照明を背に浴びて、女はうずくまった。
夜の暗幕を破って、車が何台も疾走する。そのたびに女の鼻先に粉塵が舞う。

──そろそろ帰らなきゃさすがにやばいな。
コンビニエンスストアの自動ドアが開いても、少年はすぐに歩き出そうとしなかった。
菓子パンとジュースの入ったビニル袋を自分の膝にぶつけ、彼はため息をつく。


 「携帯が落ちましたよ」
 しばらくの躊躇のあと、少年は思い切って女に声をかけた。こんなに背を丸めて、この人は気分が悪いのかもしれない。
 知ってるわよ。ほっとていてよ。そう言い返してやろうかと顔を上げた女は、少年の青白い顔を見て口をつぐんだ。
 泣きはらした真っ赤な目が見上げ、物憂い孤独の目が見下ろした。

 道路に穴を穿つような音を立てて、大型トラックが二人の前を走り去っていった。
 「ありがとう」


 ここから二人のドラマが始まると良いのだが、女はまだ彼から電話がかかってくるかも知れないという一抹の望みを捨て切れていなかったし、少年は何しろ公開模試が明後日に迫っていて家では母親が恐い顔をして待っていたので、二人は無言のままで見詰め合ってから互いに顔を背けてしまった。少年は自転車に乗って暗闇に帰っていった。
 女はまだしばらく、コンビニエンスストアの明かりに丸い背中を暖められていた。
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9月のひとり

2005年09月15日 | 習作:市民
 紅茶を入れてから、しばらくその香りをかぐ。
 (あいつには一度はっきりしたことを言わなきゃいかんな)
 洗い物を片付けたばかりの台所に佇んだまま紅茶を一口啜り、カップを手にしたままCDをかける。
 主題のないジャズが流れる。音量を心持ち絞る。
 (人間性の問題だから。あいつにははっきり言ってやらなくちゃ)
 時計の秒針を十二秒数える。そのまま一時間だって数え続けてもいい気分だ。

 私には自由がある。この、秋の夜長のための。

 紅茶を飲み干す。苦い滓(おり)が喉を通る。手早くカップを湯ですすぐ。
 少し自分は寂しいのだと自覚する。
 (あいつは昔もっと素直でいいやつだと思っていたが、でもおれだってそう思われているかもしれないからな!)
 私は台所の窓を開け放った。

 虫の音。くしゃみが出そうなほど涼しく乾燥した空気が頬を撫でた。

 私は目を閉じた。
 あいつにはまたメールでも出そう。人間性について書く必要は、今はない。うん、人間性について人に説教する必要なんて、今も、これからも、当分ないんだ。
 
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市民J

2005年07月26日 | 習作:市民
 ここは───コンビニ。とすればオレの理性はまだ今日も正常なわけだ。正しい道を通って正しい目的地に正しい時間以内に到着するヘイボンナ小市民テキニチジョウセイカツ。いつもの店員。愛想のない女子大生。ダケドカワイイ。目許ガ。クリクリシテ表情ノナイ目許ガ。
 「いらっしゃいませこんにちは」
 いつもの挨拶。訓練されたマニュアル通りの決まり文句。真心の欠如したおざなりのワンフレーズ。
 何を買うのか。何も買うものはない。何もすることがないからここに来たのだから。でもおそらく牛乳パンとコーヒー牛乳。いつもの組み合わせ。牛乳パンとコーヒー牛乳。
 
 雑誌は見ない。見たいけど。あいつまたエロ本コーナーで立ち読みしてやがる。エロ本コーナーで立ち読みはオレもしたいけど、可愛いあの子がレジにいるのにどうしてエロ本コーナーで立ち読みなんかできるのだ? どういう神経をしているのだ? 蹴ってやろうか。後ろから。ぶよぶよの汗臭いオシリを。
 ここは? 缶ジュースのコーナー。オレに用はない。オレは500mlパックのコーヒー牛乳を飲むのだから、缶ジュースのコーナーに用はない。

 さすがに5月からは新しい仕事探さなくちゃいけないな。いつまでも親のすねをかじってるなんてあの子にばれてしまうぞいつもこの時刻にここに来てたら。あの人毎日牛乳パンとコーヒー牛乳買って行くけど仕事は何してるんだろう? 自宅で何か事務所を構えているのかしら? ひひ、ちょっとうちに寄ってみるかい。オレの入れたカフェオレはうまいよ。500mlパックのコーヒー牛乳なんて卒倒するほどうまいよ。でもオレは500mlパックのコーヒー牛乳の安っぽい甘さも好きなんだよ。ねえちゃん、誰でもときどきは安っぽい甘さに安心するんだよ。わかるか? わからなきゃオレが体で教えてやるよ。ひひひひ。

 5月から仕事探さなきゃ、オレほんと廃人になっちまうな。
 コーヒー牛乳と・・・牛乳パン。オレの分は必ずある。
 あの子、今日はオレだけに「がんばってください」とか言ってくれないかな。「がんばってください」って言ってくれるだけでいいんだけど。「がんばってください」。それでオレはがんばれるんだよ。がんばって、みんなに馬鹿にされても仕事続けることができるんだよ。こんどこそほんとに長続きさせるつもりで仕事しようって思うんだよ。わかって下さい。安っぽい励ましで充分なんだよ。畜生あのデブ、どうしてあの子がレジにいることわかってエロ本持っていきやがるんだ? ほんとにレジ打ちさせる気か? おい、本気か? 畜生、そのぶよぶよの青臭いシリをほんとに蹴飛ばすぞ! 蹴るぞこら! 止めてくれ。頼むよ。恥を知れよ。
 あの子も───あの子もなんで平気で袋詰めできるんだ? それエロ本だよ。ねえ。わかってるだろう? 眉が引き攣ってる? そうだよな。わかってる。緊張してるよ、ひそかに眉が。内心じゃすっごい嫌悪感に耐えてるんだよな。仕事だからか? 仕事だからって、何で君が助平デブ男の脂ぎった手で差し出されたエロ本を袋詰めしなきゃいけないんだ? ソレガ社会カ?
 「お待ちのお客様? どうぞ」
 お待ちのお客様。お待ちのお客様なんてこの子に言われてしまった。それマニュアルにないよね。あるのかな? でもありがとう。それだけでありがとう。
 「2点で210円になります」
 はい。210円ですね。がんばって、なんて言わなくていいです。もう充分ありがとう。210円あるけどごめんね、千円札で払わせて。
 「はい、1010円お預かりします」
 うん。だめだオレ。おどおどしてお辞儀なんかして。オレ客だろ?
 「800円のお返しになります。ありがとうございます」
 触った───あの子の爪がオレの乾燥して荒れたてのひらに触った。ごめんね。あとで拭いておいてね。オレちょっと皮膚病持ってるんだよ。エロ本と皮膚病には触っちゃ駄目だよ。
 どうせ手を洗うんだろうけど。あの子清潔好きだから、十分ごとに手を洗ってるもんな。そんなこともマニュアルにあるんだろうか。でもオレは今日一日手を洗わないよ。悪いけど。


 畜生、まぶしいなあ。梅雨の前に夏が来たんじゃないか? 五月に入ったら絶対仕事探さなきゃ。がんばれるかな。こんどこそ。

(おわり)
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女人。サンプルF

2005年03月11日 | 習作:市民
 「彼氏は今は別にいいかな、て感じ」
 その女は夜の公園を横切って自宅へと帰る道すがら、私に向かってつぶやいた。きらきらする目と純白のドレスが、街灯の頼りない灯りの下でも怪しいほどに光り輝いて見えた。危険な笑顔を持つ人だ、と私は思った。飲み屋で偶然知り合ったばかりのこの私に、その笑顔はとても危険だ。
 誰が危険なのか?

 「今は、もっと多くの人を愛したい」

 彼女の笑顔は、えくぼがくっきりとふくよかな頬につく、とても愛らしい笑顔であった。彼女が笑うとき、あらゆる男の警戒心を打ち砕くかのように、美しく並んだ前歯がわずかに上唇の下に覗く。その前歯がなぜかとてもあだっぽく見えるである。
 彼女の全身から出る、何人をも攪乱するこのオーラは、彼女自身、留めることができないのではないか。
 事実、先ほどの飲み屋でも、彼女は一人の会社員と一人の社長に美しいと褒めちぎられ、彼女の純白のドレスのせいで飲み屋は日頃ありえないほど男性客で混雑した。

 「だれでもいいから」

 ───そんなこと言っちゃ駄目だよ。

 彼女はちょっと驚いた風であったが、すぐに、今までよりはオーラの少ない、どこかおざなりな、しかし自然な笑顔を私に向けた。
 「ここが家なの」

 そうか、と私は小さく答えた。ずいぶん大きな邸宅だった。
 なぜかとても切ない気持ちに、私はなった。ハーフコートの立ち襟にあごをうずめた。
 彼女は立ち止まり、ぺこりと私に頭を下げ、ありがとう、おやすみなさい、と言い残して家に入っていった。おやすみ、と私も、声を返した。
 
 
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