街では初雪が舞い、人々が立ち止まり、学校帰りの子どもたちがプレゼント箱を開けたような歓声を上げた。犬を連れた婦人が自分の指に落ちた粉雪を、しゃがみこんで犬に見せた。しかし三階建てのアパートの一室は、初雪どころではない、という緊迫した空気に包まれていた。
「ねえ、どうして大根を一本丸ごと買ってきたの」
「え、だって、どうせ使うだろ」
「使わないわよ。大根は半分でいいって言ったじゃない」
「でも、まあ、何かに使うよ」
「使わないったら使わないのよ。なんで? なんで言うことを聞いてくれないの」
「そんなこと言っても・・・」
「ねえ、私、大根は半分って、メモにも書いたし、口でも伝えたよね。なのにどうして一本買ってきたの」
男は目をしばたたきながら買い物袋を覗き込み、それから女の顔を恐る恐る伺い、最後に腕を組んで眉間にしわを寄せた。自分が何を考えていたのかまで覗き込もうとするように。
「なんかまあ・・・別に・・・大した意味はないよ。大根って、一本丸ごとって方が、美しいっていうか、その、いかにも大根って感じが・・・」
「美しい? 美しいって何よ。え? ちょっと何? 白菜も丸ごと買ってきたの?」
「だって・・・」
「四分の一切れって書いたよね」
「ああ」
「四分の一切れって書いたよね」
「無かったんだよ。四分の一切れが。売り切れてて」
「売り切れてて? 西友で? 四分の一切れが? 売り切れてて? そんなはずないわ。西友ならいつ行ってもあったもん。ほんとに? ほんとに全部売り切れてたの? もし仮によ、仮に、四分の一切れが今日たまたま全部売り切れたとしても、半分のがあったはずよ。そうでしょう。ハーフサイズカットのが。どうして丸ごと一個買う必要があるの。今、白菜がバカ高いって知ってた? それとも、やっぱり白菜も丸ごとの方が美しいって思ったわけ?」
「ごめん」
「言っていいかしら」
「え、なんだよ」
「あなた今失業中じゃない」
気まずい沈黙を打ち破るように、隣室から幼い女の子の声が、彼らの耳に届いた。母親を呼んでいる。しかし当の母親は首だけそちらに向けて、「ちょっと待ってて!」と怒鳴った。
失業中を指摘された夫は髪を搔いた。
「それは・・・まあ・・・そうだよ」
「仕事を辞めたことを責めてるんじゃないのよ」
「わかってるよ」
「あなたは独立して頑張ろうとしているところだし。それを応援したいし。でももうすぐ失業保険も切れるし」
「うん」
「私たち三人、しばらく私のパートだけで食べていかなくちゃいけいかもしれないの。わかってる?」
「うん」
「ほんとにわかってるの」
「わかってる」
「わかってない。全然わかってない」
女は首を振りながらうつむいて、床を睨みつけた。監督がピッチャーの交代を告げに不承不承マウンドまで足を運んだ───いや、舞台監督が、演者が思い通りに演技しないことに耐え切れず、怒りを爆発させる寸前、といった雰囲気であった。
「ねえ、私、料理下手なの知ってるでしょ」
「そんなことないよ」
「そんなことあるわよ。そんなことあるの。余った大根や白菜を傷む前に上手に工夫して使うなんて、そんな器用なこと私できないじゃない。私は、クックパットに書いてある分量で、書いてある通りにしか作れない人間なの。だから私、無駄を出したくないの」
「君は、料理上手だよ」
「この包丁で峰打ちしていい?」
「やめてくれよ」
「冗談よ。冗談に決まってるでしょ? お願いだからサトシ、心にもないお世辞とかやめて。いいからやめて。お願い。ねえ、聞いて? ちゃんと真面目に聞いてくれる?」
女は極度に興奮していた。しゃべらないときは下唇を噛み、しゃべるときは感情の発露を押し留めようとするかのように両手で宙を鷲摑みにした。
「私は料理が下手よ。とっても下手よ。仕方ないでしょ。どうしようもない事実なんだから。でも私が料理するしかない。なぜなら夫は現在無職で、家に一日居るけど、料理を任せられないから。なぜなら私より料理が下手だから。料理を覚えようという気がまったくないから。ごめんね。責めてるわけじゃないの。私、あなたに料理して欲しいなんてこれっぽっちも思ってないの。ほんとよ。あなたには夢を追いかけて欲しいの。でも、でもせめて、買い出しくらいはしてもらいたい。そう思うのも自然でしょ? 私間違ってる? 私間違ってないよね?」
「ごめん」
「あのね、ケチで言ってるんじゃないの。そこをあなた誤解してるでしょ。してない? ほんと? 私、大根が半分じゃなく一本だとか、白菜が四分の一とか二分の一とか、ほんとはそんなことどうでもいいのよ。そんな細かいことはどうでもいいの。大事なことは、どうして私のお願いを軽々しく無視できるのかってこと」
「君も喜ぶと思ったんだ」
「ありがとう。でも現実を見て!」
「咲子」
「私の言うことを聞いて!」
甲高い叫び声のあとに、軽い耳鳴りと、死骸のようにテーブルに横たわる大根と白菜と、彼らが残った。
ドアがかちゃりと開いて、幼い娘が顔を出した。デニムサロペットを履いて男の子のように短い髪をしている。
「どうしたの?」
「何でもないわ。部屋に戻りなさい」
「パパ、どうしたの」
「うん。何でもないよマリ。何でもないんだ」
「わあ、大きな大根!」
マリと呼ばれる少女はテーブルに近寄って手を伸ばし、白い根菜に触れた。
「あたたかーい」
両親は自分たちの娘をいぶかしげに見つめた。
「この大根あたたかーい」
少女は大きな大根を持ち上げ、大切にしている人形のように頬ずりをし、胸に抱きしめた。
街にちらつく初雪は、次第にその数を増していた。もう夕方が来たのかまだ来ていないのかわからないような淡い色に通りを染めていた。
アパートの三階の窓が開き、三つの顔が覗いた。
(終わり)