土曜日の朝は小雨模様であった。ニューヨークの雨は冷たい。宿の食堂でずっと新聞を睨んでいる人がいる。宿の前でトランクを肘かけにずっと佇んでいる人がいる。酔い覚ましに沈黙するにはまずまず悪くない朝である。
メトロポリタン美術館に足を運ぶ。
かつて私の恩師から、『ソクラテスの死』という絵画の印刷された葉書をいただいたことがある。哲学というややこしいものに傾倒していた時代のことで、恩師も哲学者であった。彼が絵葉書を購入した美術館に自分も赴き、彼の見た実物の絵を私も見上げてみようと思い立ったのである。
私が「愛智」の学から遠ざかってもう五年が経つ。師の下を離れてから同じ年月ほど経つ。絵葉書はまだ私の机の上に飾ってある。
実物の絵は、私の想像していたものよりずっと小さかった。人々はその絵の前をどんどん素通りしていった。絵の前のソファーに腰掛けて小一時間睨んだあと、私は立ち上がってそこを出た。
☆
宵の口に、ブルーノートの扉を押す。ジャズの殿堂である。まあ入ってみようかと思って入った。ライブにはまだ間があり、誰もいないカウンターに腰かける。テーブル席はナイフの音や話し声やらで賑わっている。しばらくバーテンダーを眺めながら酒を飲んでいたが、彼がまたずいぶんぞんざいな仕事をしていた。カクテルの作りもぞんざいならば、職場仲間との会話もぞんざいである。その代わり手は早かった。時間が経つにつれ混みあい殺到し始めた注文に対しても、まるでドラムを叩くように次々と裁いていた。なるほど、ここは従業員がすでにジャズなのだと感心した。やがて始まったライブよりバーテンダーの方がよほど面白かった。私の隣に夫婦が座った。聞けば奥さんはウラジボストーク出身のアーティストである。色んな話をした気がするが、そのころには酔いも相当回っていたので良く覚えていない。
最後の一曲を残して店を出た。アーティスト夫婦にあと一曲なのにと言われた。店を出たら夜は相当更けていた。
なんだか収まりがつかないのでもう一件、名前も知らないジャズバーに入った。客は少ない。テーブル席に座ってワインを飲む。
やがてライブが始まった。
どういう具合だったのか旨く説明できないが、そこでは感動を覚えた。酔っていたせいかもしれない。黒人のピアニストが鍵盤を回し、黒人の女性が天井に向かって歌っていた。あまり感動したので彼らが持参していたCD三枚全部を買ってしまった。あとのことは良く覚えていない。
2時を過ぎる頃、宿に戻ったと思う。ベッドに倒れこむようにして眠った。上着さえ脱がずに寝入ってしまったことを、翌日の朝に知った。
(つづく)
メトロポリタン美術館に足を運ぶ。
かつて私の恩師から、『ソクラテスの死』という絵画の印刷された葉書をいただいたことがある。哲学というややこしいものに傾倒していた時代のことで、恩師も哲学者であった。彼が絵葉書を購入した美術館に自分も赴き、彼の見た実物の絵を私も見上げてみようと思い立ったのである。
私が「愛智」の学から遠ざかってもう五年が経つ。師の下を離れてから同じ年月ほど経つ。絵葉書はまだ私の机の上に飾ってある。
実物の絵は、私の想像していたものよりずっと小さかった。人々はその絵の前をどんどん素通りしていった。絵の前のソファーに腰掛けて小一時間睨んだあと、私は立ち上がってそこを出た。
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宵の口に、ブルーノートの扉を押す。ジャズの殿堂である。まあ入ってみようかと思って入った。ライブにはまだ間があり、誰もいないカウンターに腰かける。テーブル席はナイフの音や話し声やらで賑わっている。しばらくバーテンダーを眺めながら酒を飲んでいたが、彼がまたずいぶんぞんざいな仕事をしていた。カクテルの作りもぞんざいならば、職場仲間との会話もぞんざいである。その代わり手は早かった。時間が経つにつれ混みあい殺到し始めた注文に対しても、まるでドラムを叩くように次々と裁いていた。なるほど、ここは従業員がすでにジャズなのだと感心した。やがて始まったライブよりバーテンダーの方がよほど面白かった。私の隣に夫婦が座った。聞けば奥さんはウラジボストーク出身のアーティストである。色んな話をした気がするが、そのころには酔いも相当回っていたので良く覚えていない。
最後の一曲を残して店を出た。アーティスト夫婦にあと一曲なのにと言われた。店を出たら夜は相当更けていた。
なんだか収まりがつかないのでもう一件、名前も知らないジャズバーに入った。客は少ない。テーブル席に座ってワインを飲む。
やがてライブが始まった。
どういう具合だったのか旨く説明できないが、そこでは感動を覚えた。酔っていたせいかもしれない。黒人のピアニストが鍵盤を回し、黒人の女性が天井に向かって歌っていた。あまり感動したので彼らが持参していたCD三枚全部を買ってしまった。あとのことは良く覚えていない。
2時を過ぎる頃、宿に戻ったと思う。ベッドに倒れこむようにして眠った。上着さえ脱がずに寝入ってしまったことを、翌日の朝に知った。
(つづく)