た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 11

2006年02月26日 | 連続物語
 ドアノブに手をかけようとして、私は硬直した。ドアノブの中で五本の指が握り締められている。再び私は、悪夢が現実であることを思い知らされたのである。私は現世の、まさしく何物をも動かし得ない。実存の度合いにおいて風以下なのだ。ふざけている。まったくふざけている。誰かが部屋に入って来るまで、私は囚人のようにじっとここで待たなければいけないのか。大学教授であるこの私が。いや今は教授ではないとしても、むしろ肉体を離れ超現実の自由を得たはずのこの私が。
 冷静は打開を生む。今日当たり妻が実家から戻ってくる予定だから、あいつの帰宅を待っていればいいではないか。いやしかし、どうもあいつの顔なぞ見たくもない。いやいや、会ってとっちめてやらなければいけない、何しろあいつが下手人であるに違いないのだから。いやいやいや、と私は分裂する思考に苦吟して両手でひたいを押さえた。それとも、ただ、あいつに会いたいのか。ひと目会いたいだけなのか。今生の別れに。そこで愛する夫の死骸を見て驚きおののくあいつの表情を見て、私の邪推が誤解であったことに気づきたいのか。まさか。私は憤りのあまりひたいをこぶしで叩いた。むしろ、邪推が正しいことに気づかされ、二十余年前の愛が決定的に否定されるのが恐いのではないか。
 ええい面倒な。異性との共同生活とは、しょせん邪推し期待し幻滅し納得することの繰り返しである。誰が犯人でも犯人でなくてもいいから、ここから出してくれと、私は窓から天井から、あらゆる場所を精査して、這い出ることのできそうな隙間を探した。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 12

2006年02月26日 | 連続物語
 よく見ると、大きなアルミサッシの上の通風窓が半分開いて網戸になっている。顔を近づけると、少し湿り気を帯びた朝の空気が頬を撫でる。網と網が織り成す小さな孔から出られるわけがないとわかっていても、なぜだか私は強くそこに惹かれた。空気が通りさえすれば、自分も通れるような気がしてならないのである。考えてみれば、今の自分に固定した体の輪郭はない。ドアを回そうと思えば手が現れ、足元を見れば自分の足が見えはする。しかし今の自分に手足肉体など存在しないと思えば存在しないのだ。現実の事物たちが私を無視するのだから、私も現実を無視していいはずである。いや無視できるのである。どうも今の自分の体は意識次第でどうにでもなる。結局、意識の内でしか存在しないのであろう。cogito ergo sum。思えばそこに吾あり。現に、通風窓に近づきたければこうして空中を浮遊することもできるではないか。毛虫も通さぬ網戸の孔だって、幽体離脱者は通すかも知れない、と、思い切って孔を目指して近づいたら、私の体は春風のように小さな孔をするりと抜けて外へ出た。

 愉快である。実に愉快である。はははは。天網恢恢疎にして幽体離脱者は漏らすかな。私は我が家をはるか下界に残し天空高く舞い上がった。羽ばたきもせず、雲にも乗らず、箒にもまたがらず! 私は神々の視点を持った。
 少し驚いたことに、外は霧雨が降っていた。居間に差し込んでいた日差しは目映かったが。実際、空は晴れていたのだ。蒼穹のどこからともなく涼しい滴が現れては私を通り越し、下界へと吸い込まれていくのである。晴天の雨。狐の嫁入りである。小学生のころ、田舎の畦道を帰りながら何度も見た気がする。私は滴を顔に受けながら我知らず微笑んだ。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 13

2006年02月26日 | 連続物語
 空よ、ここには何もない! 見渡す限り、永遠の霧雨。「永遠」に私が、中心を与える。
 そして幾千本の日の光が、「永遠」に出口を指し示す。
 しかし私は太陽からすぐに目を逸らした。パイドロスよ、私はまだあそこに用はない。私の魂はまだ羽を生やしていない。どうも私は単純に考えて死んでいるように思えない。なぜって死んだら、太陽なんてまぶしくないと思うのだ。
 さて体の向きを変えて見下ろせば、私は肩を落として嘆息せざるを得なかった。我が青春と壮年と晩年を送りし東京の街の、何とくすんで見えることか。まるで湖底のヘドロである。純白の天使さながらに舞い降りてくる霧雨も、あの奥底の泥を洗い清めることは不可能であろう。人間はどうしてここまで無節操に繁殖してしまったのか。
 自律的な人口抑止論は、実のところ、私の多岐多様に亘る持説の一つであった。特に、私がまだ若いころの。人間はあまり長生きすべきではないし、たくさん子を産むべきではない。それは人間社会の維持の目的にそぐわない。地球という米びつはこれ以上の人間を養いきれない。残念ながらこの優れた霊長類には淘汰の原理が働かないから、自分たちで率先して頭数を減らすしかない。私はゼミで高邁なる余談を求められるたびに、また酒の席で酒の勢いを増す必要があるたびに、口角泡を飛ばしてきた。老人はこんなに要らない。memento mori. そう言いながら、私自身が結構長生きをしてしまった。なおかつまだまだ長生きするつもりであった。結婚して必要もないのに子どもも産んでしまった。誤算である。哲学者はよく誤算をする。それがまた次の哲学に繋がる。だが死んでしまえばもう哲学もできない。いや哲学はいくらでもできるが、印税が入らない。印税が入らなければ、食っていけない。しかし食っていけなくても、幽体離脱という現在の身分は空腹を覚えそうにない。世の中上手くできている。
 私は一人納得して顔を上げた。たった一人きりなのだから、一人納得もないと言われるやも知れないが、顔を上げたらもう一人いたのだ。私は心底魂消てしまった。
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無計画な死をめぐる冒険 14

2006年02月26日 | 連続物語
 何者かが遠くから、明るい春雨を浴びながら、宙を歩いてこちらに向かってきている。万有引力を無視しているのは現在の私と同等だから良しとしても、なぜか私は、幽体離脱者は自分独りのような気がしていた。無論複数いて差し支えない。差し支えないのだが、彼は全体何しにこちらに向かっているのだろう。背がずんぐりと低い。どうも私より歳を取った男である。私は恐怖を感じた。冷静に考えればもう死んでいるのだから彼に殺される心配はないはずであるが、それでも限りある命を抱えて生きていたときの長年の習慣で、私は恐怖を感じた。

 雨脚越しに段々男の輪郭がはっきりしてきた。大した風采ではない。風采と言えば私も大きな口は叩けない顔立ちではあるが、それにしても大学教授としての貫禄と知性と、包み隠された色気が私にはある。私の目にある。真理を貫き通す視線。妥協を許さない太い眉。我が眼光と低いバリトンの声を見聞きしに、それだけの目的でゼミに参加する女子学生もいるくらいだ。思い込みではない。彼女たちの恍惚とした阿呆面を見るとそれがわかるのである。権威のマントを羽織る眼光鋭き男というものがどれだけ女性にとって魅惑的であるかという事実については、一昼夜ではとても語り尽くせぬものがあるが、そうそう、今は私の肖像を描く場ではない。刻々と近づきつつあるかの醜男である。
 鼻は団子鼻である。あれでは高尚なる物とそうでない物を嗅ぎ分けることはできまい。口はいぼ蛙のようにだらしなく弛緩している。あそこから深遠なる言葉が聞かれるとは思い難い。小さな目は、左右が不均衡な歪み方をして、誠に迫力に欠ける。そう、博史が幼い時分、美咲がしきりに奴のために買い揃えていた熊のぷーさんそっくりである。ぷーさんとは笑止である。こんなものばかり買い揃えると、息子がそっくりに成長するぞ、と脅かしてやったが、案の定息子はあの熊公のように間の抜けた大人になってしまった。そう言えば姿勢のだらしなさはあの男に似ていなくもない。
 嫌なことを思い出して、私は敵愾心も露わに腕組みをして彼を迎えた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 15

2006年02月26日 | 連続物語
 男は私の目の前に立ち止まり、顔を皺くちゃにした。おそらく微笑んだのだろう。
 遥か下方でカラスが鳴く。
 対峙する我々のひたいを雨が濡らし、日光がそれを煌めかせた。
 「どうですかな。死んだ気分は」
 私はむっとした。
 「死んだつもりはない。いや多分死んだのかも知れんが。そういうあんたは死者を迎えに来た天使か何かかね」
 団子鼻は豚のようにきいきいと笑い転げた。 
 「天使ですか。そりゃいいや。天使になりましょうかな、ご用命なら。しかし残念ながら私には羽がない」
 私は馬鹿にされたようで憤慨した。 
 「羽があってもお前さんみたいな器量の天使なら要らん。ふん、お宅も幽体離脱の口か」
 「幽体離脱? ほほ、難しい言葉をご存知だ。さすが生前の大学教授」
 「お前さん、どうして私のことを知っているのだ」
 「そう仰られてもですな。あなたのことだけ知らずにいるのも難しいんです。何しろこう来る日も来る日も手持ち無沙汰ですと、世の隅々を観察するくらいしか退屈しのぎがないもんでしてね。へへ。おかげさまでいろいろ知っておりますよ。渡り鳥は飛びながらどうやって昼寝をするか、とかね。どうです、空からの眺めは」
 「おい、念を押すが、私は死んだのか」
 「見て御覧なさい。素晴らしい景色です。実に素晴らしい。今に至るまで空からの視点で描かれた名画は人間界に存在しませんが、それは人間にとって見慣れぬ景色だからに過ぎないことがわかりますなあ」
 「私は死んだのか」
 団子鼻はうるさそうに耳を掻いた。
 「え? よく存じませんが、おそらくあなたの家の居間に転がっているあなたは死体でしょうな」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 16

2006年02月26日 | 連続物語
 私は顔を覆った。
 結局のところ、私は死にたくなかったのだ。絶望なのだ、この感情は。
 下界でカラスがまたぎゃあぎゃあと鳴く。
 「では私はもう肉体に戻れないのか」
 「割れた卵の殻に卵の中身は戻りませんやね」
 「変なたとえはいらん」
 「はいはい」
 「私は、幽体離脱どころか、今となっては幽霊なのか」
 「人間界の言葉には、ちょくちょく意味の曖昧なものがあります。幸福とか、死とか、現実とか、幽霊とかね。誤解しないためにもあまり手垢の付いた名前で括らない方がよろしいでしょう」
 「バルバロイめ。訳のわからん言葉ばかりしゃべりやがって。私はこれからどうなるのだ」
 「おやおや、あなたは肉体を離れてもまだご自分の行く末にご執心ですか」
 「当たり前だ。自分に行く末がある限りご執心だ。しかも未知の行く末だぞ。終着点の見えないジェットコースターに乗ったようなものだ。私にはまだ意識がある。意識があるんだ。存在が無いのに意識がある。ろうそくがないのに炎がある。何なのだこの意識は? しかしこいつまで目を閉じたら、私はもう、どうにもこうにも、いかなる意味においても死ぬのだ。死んでいる、既に、とお前さんなら冷酷に言うだろうが、再び死ぬことになるのだ。二度死ぬのだ。一度目は肉体において。二度目は意識において。そのとき私が演じ手であり私が観客であったこの私という劇場は永遠に封鎖されるのだ。私はせめてこの舞台の上に留まりたい。たとえ幻想の舞台であってもいい。何一つ触れなくてもいい。匂いが嗅げなくてもいい。いやできれば嗅ぎたい。触れたい。もう一度肉体の重みを感じたい。自分の唇を噛んでその痛みを知りたい。よくわからん。よくわからんが、失ったものは取り戻したいのだ」
 団子鼻は不揃いの歯を見せて笑った。 
 「あなたはかつてプラトン哲学がご専門だったはず」
 「それがどうした」
 「いや、別に」
 人の専門を尋ねておいていや別にとは、どこまでも失礼なやつである。私は熊のぷー太郎の団子鼻の前に人差し指を突き立てて見せた。
 「プラトン主義者なら肉体の重荷を脱ぎ捨てて、満足だろうとでも言いたいのか。イデアの世界へご招待とでも言いたいのか。私はあいにく空想嫌いな哲学者なんだ。ついでに言えば哲学もプラトンも嫌いだ」
 団子鼻はまた腹を抱えて高笑いした。よく笑うやつである。
 「それでこそ立派な哲学者ですな。あなたはこの社会に入っても退屈しませんよ」
 私はますます呆れた。
 「この社会とはなんだ。お前さんと私しかいないじゃないか」

(つづく)
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ある人の言葉(34)

2006年02月12日 | 写真とことば
ぜったい風邪ひかない方法があるんだよ。

知ってる?


言い訳をしないことだよ。


☆   ☆   ☆

(ちょっと言い過ぎたね。

風邪っていう病気はないんだよ、ほんとは。

それを知ることなんだ)
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