私は後悔した
それに出遭う以前
うかつにも幾万遍
美しいという言葉を
安く用いてきたことを。
私の突き進む蒼穹に一点の翳りが見えた。見えたと思う間もなく、翳りは指数関数的に大きくなった。私は東大の文科三類に入学したが、一番好きな学科は数学だった。よってこういう表現を採ってしまう。指数関数的にというのはつまり急激に大きくなったのである。そう言えば済むところを衒学的に言い回そうと企むところが死して未だ世俗的である。いけないと反省するのだが、反省する間もなく翳りは視界を覆うほど大きくなって私の行く手に立ちはだかった。私は急ブレーキをかけた。
大きく見えたのは、それが衣だったからである。翳って見えたのは、太陽の光を遮っていたからである。衣は純白であった。天女の羽衣のように美しい襞が風になびき、私の目の前で獅子のたてがみのように広がった。いや、真白い薔薇があるとしたら、まさにそれであった。
私は唾のない生唾を呑み込んだ。薔薇の雌しべを見よ! その部分に見えるのは、かつて彫刻でしか目にしたことのないほどの芸術的な美に輝く、乙女の顔であった。
小作りにして気高い鼻。新雪のように滑らかな曲線を持つあご。穢れある言葉を一度も口に出したことなく、穢れある食べ物を一度も口に入れたことのないと思われる清純な唇。黒曜石のように深い色をたたえた小さな瞳。羽衣よりもさらに広く風に舞い上がる長い黒髪。
それはあまりにも非現実の美しさであった。絵画のようであった。率直な感想を言えば、漫画であった。秋葉原界隈で流行っている奴だ。無論私は読んだことはない。学生が大学に持ってくることもある。ゼミの部屋で平気で読んでいる輩もいる。学生の質も落ちたものだ。
だが白薔薇の乙女である。それは非の打ちどころがなかった。そこが私を不安にした。たとえ天使というものが実際に存在したとしても、これほどまでに純潔の衣装を身にまとってこれほどまでに人間離れした容貌を備えてはいまい。
肌は衣よりもなお光を透き通す白であった。
(つづく)
それに出遭う以前
うかつにも幾万遍
美しいという言葉を
安く用いてきたことを。
私の突き進む蒼穹に一点の翳りが見えた。見えたと思う間もなく、翳りは指数関数的に大きくなった。私は東大の文科三類に入学したが、一番好きな学科は数学だった。よってこういう表現を採ってしまう。指数関数的にというのはつまり急激に大きくなったのである。そう言えば済むところを衒学的に言い回そうと企むところが死して未だ世俗的である。いけないと反省するのだが、反省する間もなく翳りは視界を覆うほど大きくなって私の行く手に立ちはだかった。私は急ブレーキをかけた。
大きく見えたのは、それが衣だったからである。翳って見えたのは、太陽の光を遮っていたからである。衣は純白であった。天女の羽衣のように美しい襞が風になびき、私の目の前で獅子のたてがみのように広がった。いや、真白い薔薇があるとしたら、まさにそれであった。
私は唾のない生唾を呑み込んだ。薔薇の雌しべを見よ! その部分に見えるのは、かつて彫刻でしか目にしたことのないほどの芸術的な美に輝く、乙女の顔であった。
小作りにして気高い鼻。新雪のように滑らかな曲線を持つあご。穢れある言葉を一度も口に出したことなく、穢れある食べ物を一度も口に入れたことのないと思われる清純な唇。黒曜石のように深い色をたたえた小さな瞳。羽衣よりもさらに広く風に舞い上がる長い黒髪。
それはあまりにも非現実の美しさであった。絵画のようであった。率直な感想を言えば、漫画であった。秋葉原界隈で流行っている奴だ。無論私は読んだことはない。学生が大学に持ってくることもある。ゼミの部屋で平気で読んでいる輩もいる。学生の質も落ちたものだ。
だが白薔薇の乙女である。それは非の打ちどころがなかった。そこが私を不安にした。たとえ天使というものが実際に存在したとしても、これほどまでに純潔の衣装を身にまとってこれほどまでに人間離れした容貌を備えてはいまい。
肌は衣よりもなお光を透き通す白であった。
(つづく)