た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 35

2006年06月22日 | 連続物語
 私は後悔した
 それに出遭う以前
 うかつにも幾万遍
 美しいという言葉を
 安く用いてきたことを。


 私の突き進む蒼穹に一点の翳りが見えた。見えたと思う間もなく、翳りは指数関数的に大きくなった。私は東大の文科三類に入学したが、一番好きな学科は数学だった。よってこういう表現を採ってしまう。指数関数的にというのはつまり急激に大きくなったのである。そう言えば済むところを衒学的に言い回そうと企むところが死して未だ世俗的である。いけないと反省するのだが、反省する間もなく翳りは視界を覆うほど大きくなって私の行く手に立ちはだかった。私は急ブレーキをかけた。
 大きく見えたのは、それが衣だったからである。翳って見えたのは、太陽の光を遮っていたからである。衣は純白であった。天女の羽衣のように美しい襞が風になびき、私の目の前で獅子のたてがみのように広がった。いや、真白い薔薇があるとしたら、まさにそれであった。
 私は唾のない生唾を呑み込んだ。薔薇の雌しべを見よ! その部分に見えるのは、かつて彫刻でしか目にしたことのないほどの芸術的な美に輝く、乙女の顔であった。
 小作りにして気高い鼻。新雪のように滑らかな曲線を持つあご。穢れある言葉を一度も口に出したことなく、穢れある食べ物を一度も口に入れたことのないと思われる清純な唇。黒曜石のように深い色をたたえた小さな瞳。羽衣よりもさらに広く風に舞い上がる長い黒髪。
 それはあまりにも非現実の美しさであった。絵画のようであった。率直な感想を言えば、漫画であった。秋葉原界隈で流行っている奴だ。無論私は読んだことはない。学生が大学に持ってくることもある。ゼミの部屋で平気で読んでいる輩もいる。学生の質も落ちたものだ。
 だが白薔薇の乙女である。それは非の打ちどころがなかった。そこが私を不安にした。たとえ天使というものが実際に存在したとしても、これほどまでに純潔の衣装を身にまとってこれほどまでに人間離れした容貌を備えてはいまい。
 肌は衣よりもなお光を透き通す白であった。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 36

2006年06月22日 | 連続物語
 その存在は即ちMarchenであった。私にメルヘン趣味はない。しかし遭遇して悪い気のするものではもちろんない。あの団子鼻よりは宇宙物理学的な倍率でよりましである。そのことを開口一番彼女に伝えようと思ったが、当然ながら元大学教授でありかつ紳士である私にそのような不躾な真似はできないので、私は軽く魅力的な会釈とウィットの効いた挨拶を選んだ。
 「これはこれは。私は不幸にも死ぬまであなたのような美しいお方がこの世に存在することを知りませんでしたが、死んだ今となって初めて、それを知る幸運に恵まれました」
厳選した割にはまどろっこしい表現をしてしまった。馬鹿な女子大学生は、ときどきこういうもって回った知的香りのする表現に昏倒したりするものだが、このメルヘン少女には通じないであろう。
 案の定少女は笑み一つ浮かべない。ほの赤い唇だけが動いた。
 「私はこの世に存在しているわけではありません」
 鈴を転がしたような声である。しかし言っている内容は少々屁理屈である。
 私は紳士的な微笑を崩さずに続けた。「もちろん。もちろんですとも。あなたは下界にうごめく凡夫どもと同じ階層世界に存在しているわけではありません。私はそのような意味で『この世』という言葉を使ったのではない。不用意な表現をしたことは詫びます。卑しくも哲学で口を糊した者としてお恥ずかしい限りだ。しかし同情も乞いたい、何しろ私はまだ死んだばかりで、現在私の置かれた世界が、『この世』なのか『あの世』なのかさえはっきり判断できないでいるのです。いずれにせよあなたは私の目の前に、ここにこうして存在する、こんなにまぶしく、こんなに神々しく、こんなに魅力的に。そういう意味で、かくも高貴な存在に巡り逢えるとは何たる幸運、と言ったわけです」
 少女はまたも表情一つ変えない。
 「あなたはどこへ行こうとなさっていたのですか」
 どうも肩透かしを食らわす少女である。話の通じないところは団子鼻に似ている。
 それでも私は、斜に構えて遠い目線をし、威厳を保った。
 「せっかく魂だけになったんだ。空の果てを見ようと思いましてね」
 「空の果て」
 「ええ。雲の上、太陽の手前です。天と言われる領域です。かつて数多の英雄たちが指差しながら、生きているというそれだけの理由で見ることの叶わなかった世界ですよ。何も無いかも知れない。でも死んだ私には、ひょっとして何か見えるかも知れない。はは、ロマンがあるじゃありませんか。そうだ、よろしければ御一緒しませんか」
 「いけません」
 「これはまたにべもない断り様」
 「あなたが行くのがいけません」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 37

2006年06月21日 | 連続物語
 さすがに私は諸手を挙げた。
 「私が行くのがいけないだと? どうしてだ。どうしていけないんだ。あんたにはそんなことを言う資格があるのか。何者なんだ、あんたは? 畜生、どいつもこいつも、死んで幽体離脱して以来、言葉を交わせる同類に遇ったのはこれで二人目だが、会話が通じたためしがない。逆に孤独感は増すばかりだ。最初の風采の上がらない奴はこっちの質問に何一つまともに答えなかった。あんたは風采は申し分ないが、どうなんだ。私の質問に誠実に答える気はあるのか」
 答える気の毛頭ない顔である。夏簾でも眺めるような涼しく無表情な黒い瞳が私を見返す。そこに私が映っているかどうかさえ疑わしい。
 疾風が長い黒髪を舞い上げた。
 「あなたが最初に会った男は」
 「ああ、いぼ蛙みたいな顔をした背の低い奴だった」
 「その男は、私です」
 美女は突拍子もないことを口走るのが世の常だが、幽体離脱の世界でも同じらしい。
 「冗談は生きている間だけにしてくれ。あの男の団子鼻をもぎ取ったらあんたの筋の通った鼻が出て来るはずだったとでもいうのか」
 「その男は私です。ここから引き返してください」
 「なあお嬢さん」
 私は少女に大胆に近づいた。得体の知れない相手ではあるが、たとえ痛い目に遭っても、これだけ美しい存在に痛めつけられるなら構うまい。
 「お嬢さん、あなたは何者なんだ。それだけでもせめて答えてくれ。あなたも私と同じように、不幸な死に方をして成仏できずに彷徨っている口なのか。だったら共に不幸を嘆き合おう。私は君をいくらでも慰めてあげるつもりでいるし、この空の下で唯一無二のよき話し相手になれると自負している。わたしは君と出会ったこの美しい運命を大切にしたいのだよ。しかし君はあの寄り目の団子鼻が自分だと言う。ひょっとして君は────君は────あの団子鼻が化けて私をからかっているのか」
 少女は首を横に振った。初めて私の質問に直接答えたことになる。  
 「私は存在していません」
 千切れ雲が、私を見つめる白い顔に影を投げた。
 
 (つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 38

2006年06月21日 | 連続物語
 巫女でもあるまいにまた解釈の難しいことを言いおって。だったら私も存在していないのか、と訊き返そうとしたが、喉まで出掛かったところで躊躇われた。そうなのだと肯定されれば、それはそれで意気消沈する。
 存在していないだと。存在していないと言うその存在は何なのだ。存在を否定する存在は否定的存在としてその存在自体が存在せずとも有害である。ああ、目の前の屁理屈女と世の中すべてを私がやってきた哲学もろとも呪詛したい気分である。
 「わかった、もういい。あなたが存在してようがしていまいが、では、この際どうでも良いこととしよう。別な問いに答えてくれ。どうして私はこれ以上昇ってはいけないのだ」
 「下へ降りるのです」
 「お前さんいい加減にしなさい。私はかつてエゴイスティックでない美人に出会ったことがないが、誰一人としてお前さんほどではなかった。お前さんの目鼻立ちは大英博物館行きの価値がある。だが耳はカラスも突かないほど腐りきっているぞ。私の質問が聞こえないか? どうしてこれ以上昇ってはいけないのだ」
 「戻って来れなくなります」
 「なぜなのだ」
 「重力の関係です」
 「重力? すでに重力の支配から自由になったと我が身を自覚していたが。ここにこうして床もなく立っているのが何よりの証拠ではないか」
 「下へ降りましょう。死んだからと言って、地球から自由になるわけにはいかないのです。地上から離れすぎるのは危険です。それよりずっと下に降りてみましょう。あなたはまだ去った世界で見ておきたいものがあるはず。面白いところへ連れて行ってあげます」
 冷血少女の顔が一瞬微笑んだように見えたのは、気のせいかもしれない。私を挑発しているとしたら、この能面少女は今最大限にそれをやっているに違いない。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 39

2006年06月21日 | 連続物語
 彼女は私の返事を待たずに急降下し始めた。三秒とためらう時間を要せず、私もその後を追った。何はともあれきゃつは私より現状認識が進んでいる存在であるには違いないのだ。きゃつの言う通り、これ以上昇ったら本当に戻って来れなくなるのかも知れない。いや、あるいは何か見せたくない真実が上空にあって、それを必死で秘匿するために下手な嘘で誤魔化しているのかも知れない。それだったら後ほどまた上昇のチャンスを伺えばよい。今は女に付いていった方が、何かしら真相が明らかになる可能性が高い。それに美人の尻を追いかけるのも悪くない。
 それにしても、支離滅裂な話し振りといい、こちらの言い分を聞かずに勝手に動き始めるところといい、なるほど団子鼻に極似している。ひょっと本人の言うとおり、同一人物だとしてもあながち不思議でない気がしてきた。
 我々二人は下降した。晴れ間から落ちる二つの滴のように。女が先頭であり、その後を私がついて行く。ところが女の進路は東に大きく逸れた。私も彼女を追った。滴二滴は灰色の地表を嫌い、翼を持った。街が去り、海が我々を迎えた。
 大海原である。太平洋。蒼穹と同じ広大さを持つ海。もはや三百六十度見渡す限り陸のないところまで来た。魚眼レンズで覗いたようにぐるり四方が丸く盛り上がった海が迫る。 それにしても、上空から見下ろす海はどうしてこうもどす黒いのか。
 謎の女は速度を落とすことなく、一気に高度を下げ、衣をなびかせて海に潜った。波音一つ立たない。海に消えたと言った方が正確である。存在のないものは決して既存在を波立たせないのである。私は躊躇したが、躊躇している暇はないのである。ここで彼女を見失うわけにはいかない。私も慎ましやかに海に消えた。

 母なる海、生命の宝庫! 暗幕の中は荘厳なるSilent Movieであった。動くものすべては芸術である。鰯らしき小魚の大群が私を出迎えて旋回した。青い魚がいる。黄色い魚がいる。縦縞模様は鯛であろう。海蛇もいる。エイもいる。しかしどの雑魚一匹にも気づかれずに私がいる。私のために鰯が旋回したと思ったのは誤解だった。彼らは暇さえあれば旋回しているのだ。私は海に体一つで潜った。しかし海と一体化したわけではない。私は濡れさえしていない。眼前に広がるコバルトブルーの楽園は、あくまでもよくできたSilent Movieに過ぎないのだ、私にとって。
 女の衣の裾が暗黒の海溝に消えた。あやつどこまで潜る気なのか。

 視界は急激に光を失う。私は速度を落とさざるを得なかった。これでは前も後ろも見えない。これ以上潜り進んだら昇って来れなくなるのではないか。溺死する心配はないにしても、闇はやはり不気味である。
 あの性悪女め、私をからかったな、と思うや否や、私の手を握る者がいた。
 「こちらです」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 40

2006年06月21日 | 写真とことば
 奴の声である。私の手を強く引っ張る。最早自分の手の平も見えないほどの闇の中だが、確かに綺麗な女性の手の感触ではある。私はしばらくされるがままにした。美人に手を引っ張られるのも全然悪くない。
 だがその手は私をさらに闇の奥底へと引きずり込んだ。
 「おい、こちらですって、これじゃ何も見えない」
 返事はない。
 気泡が一つ、私の頬を掠めて去った。いかなる生物が出したか、それとも地殻の嘆息か。気泡に気づけたのは、わずかな光の残滓による。それも二度目は無かった。こうなるとどれだけの気泡が立ち昇ろうが、触覚を持たず視覚を塞がれた私にはわかりようがない。
 ついにどこを見渡しても一点の光もない完全なる漆黒に覆われたとき、女は不意に手を離した。私は掴まるものさえ失った。
 「こら、待ちなさい、手を出さんか。おい、こんなところで手を離すやつがあるか」
 「ここです」
 「何がここだ?」
 「あなたをお連れしたかった場所です」 
 「ここ? なるほど、珍しい。他にない場所だ。ただの真っ暗闇じゃないか。ふん、何か我々の間で秘め事でも行うならうってつけかもしれないが。それにしても暗すぎる。お前さんがどこにいるかわからない。私の指さえ見えない」
 「どちらが海面の方角かわかりますか」
 「海面。海面とは、つまり上の方向ということか。ちょっと待ちなさい、ふむ。わからないぞ。おい、これは不味い。上下がわからない。待ってくれ、我々は重力の影響を受けているのではないのか。浮力と打ち消しあっているわけでもあるまいに? 太陽はどちらを昇っているのだ?」
 「身体がないので浮力はありません。重力を身体で受けてないから、上下がわからないのも当然です」
 「私はgraveのみならずgravityにも見放されたか」
 私の必死の冗談を、馬鹿女は黙殺で受け流した。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 41

2006年06月21日 | 連続物語
 何分経ったか。あるいはわずか数秒の沈黙か。
 「おい」
 返事はない。
 「おい!」
 「はい」
 「よかった、お前さん、まだそこにいるんだな」
 女はひどくゆっくりとしゃべった。
 「ここで私が消えたら、あなたはどうなるかわかりますか」
 感じるはずのない深海の冷たさを、瞬間、全身で感じたと錯覚した。
 「わかる。わかるぞ。それは困る。私はこの闇の底で道に迷って永久に脱出できなくなる可能性がある」
 「ではさようなら」
 「こら、待ちなさい、私に君は何の恨みがあるのだ。待ってくれ。手を握ってくれ。どこへ行くんだ。おい」
 恥ずかしながら私はほとんど声を裏返して叫んだ。完全なる闇がこれほどの恐怖を駆り立てるものとは思わなかった。
 「ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」
 女の高笑いである。ひどく近くで聞こえる。あの能面の顔のどの筋肉をどう動かせばそんな良く通る声が出るのか不思議である。
 「何が可笑しい」
 まさに可笑しいのはうろたえる私に違いないが。
 「怖いですか」
 「怖いかだと? 貴様、貴様はろうそくの炎で手を炙らせながら、熱いですかとあざ笑っているようなものだ。性根が腐ってないか。怖いに決まっておる」
 「怖いですか。この場所で、このまま、一万年もそれ以上もたった一人きりでいるのです。そう思ったらどうですか」
 「一万年。私の意識はそれくらい続くのか。この闇の中で。たった一人きりで。それは、それは怖い。到底耐え切れないだろう」
 「そうですか」
 女の声は急に冷ややかに戻った。「これが本当の死の世界です」
 何一つ見えないはずの闇の中で、何かが動いたように思った。
 私の腕を、彼女の手が再び握った。この間、私は声も出なかった。
 「さあ、戻りましょう。ただし」
 私の腕を引いて導きながら、女は無感動に言葉を続けた。
 「あなたが地上に戻っても、結局はほとんどここと似たようなものだということに、いつか、数千年もすればすぐにお気づきになるでしょう」

(つづく)
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眼鏡と肉眼

2006年06月19日 | 写真とことば
眼鏡をかけてるとね、
とくに私みたいに乱視がひどいと、
時々無性に眼鏡を外したくなるんです。

ひどく疲れたときとか、
酔っ払ったときとか、
今日みたいな雨上がりの日に。

ところが眼鏡を外してびっくりするんですよ。
現実世界のほうがぼやけてるじゃないかって!
可笑しいでしょ。

でも不思議なことにね、
どれだけぼやけてても、
吐き気がしても、
やっぱり肉眼で見る世界の方が本当なんだと思えるんですよ。

美しいと思うんですよ。

変でしょ?


~ある人の言葉(37)
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帝国の

2006年06月11日 | 写真とことば
帝国の 存在理由はその崩壊に有る。


ひとり、ひとりに在る、それは。

己が胸に問へ。




ある人の言葉(36) ~某喫茶店にて
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高山にて

2006年06月07日 | 俳句
人力車

用無き車夫は

藤の下 
コメント (2)
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