ピカビア通信

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柔道 JUDO問題

2013年02月02日 | Weblog

 

高校の運動部から女子柔道まで飛び火した観のある体罰問題だが、その反応として、関係者がこんなことをやってたのは知らなかったというのは、あまりに白々しいのではないか。知らない訳ないだろう。体育会系の伝統、体質だろうに。むしろ美徳くらいに思っているのではないだろうか。例えば昔目撃した、運動部の4年生あたりが天皇の如く振舞う姿は、傍から見ていて馬鹿じゃないのと思ったものだ。特に体が大きい人間がいる運動部(バイト先のデパートの配送センターで遭遇したのは相撲部)は、下級生がまるでヤクザの構成員の如く(ここに虐めの構造の伝承を見る)周りに対して体で威圧する(一種の暴力をちらつかせる)。彼らにとっては快感なのだろう。しかし、厭な感じしか受けなかった。

で、そんな伝統も、国際的に批判され流石にこれはまずいと思ったというのが柔道協会の今の状況だろう。まさか表沙汰になるとは、が本音だと思うが、笑えるのは、ここで柔道の原点に立ち返らなくてはと言ってるところ。加納治五郎の唱える柔道の精神を見直そうということのようだが、それならば、そもそもオリンピックで繰り広げられているJUDOが違うと思わなくては。審判の顔を窺うだけのレスリングのようなJUDOを加納治五郎は世界に広げたかったのか。違うのは明らかだが、オリンピックのメダル至上主義がその精神をとうに葬っているのが現状だろう。

運動部の体質がそう簡単に変るとは思わないが、そういう指導者を育てたのは、それでもメダル(大会での優勝)がほしいと思う周りの人間(保護者、OB、学校関係者など)達だ。その頂点がオリンピックの金メダル。要するに、メダルを取ることにしか興味のない人間が余りに多すぎるのだ。運動を通して人間形成などとお為ごかしを言いたがる人間ほど、本人の人間性に疑問符というのは今まで多く見てきたような気がする。

というわけで、オリンピックはいらないという結論が導き出されるのである(かなりの極論)。

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