ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】代表的日本人

2007年04月23日 22時11分57秒 | 読書記録2007
代表的日本人, 内村鑑三 (訳)鈴木範久, 岩波文庫 青119-3, 1995年
(Representative Men of Japan, Kanzo Uchimura, 1908)

・内村鑑三が、西洋世界に日本を紹介するために著した書。原本は英語で書かれ、その後デンマーク語とドイツ語にも訳された。『代表的日本人』として以下の五名を紹介している。西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)。
・『異国の人びとに広く我が国を紹介しよう』というその発想の大きさに、まず打たれる。日本人である私が読んでも再発見があるということは悲しむべきことか。少々内容が、子供向け伝記や童話のようにキレイすぎるきらいはありますが、そんなことは気にさせなくなるほどの著者の気概が伝わってきます。名著。
・「青年期に抱いていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません。(中略)わが国民の持つ長所――私どもにありがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のもの――を外の世界に知らせる一助となることが、おそらく外国語による私の最後の書物となる本書の目的であります。」p.11
・「世界から隔絶していることは、必ずしもその国にとって不幸ではありません。」p.13
・「「天を相手にせよ。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」」p.22
・「ある意味で1868年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます。」p.23
・「必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました。」p.24
・「「文明とは正義のひろく行われることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」  これが西郷の文明の定義であります。」p.32
・「不誠実とその肥大児である利己心は、人生の失敗の大きな理由であります。西郷は語ります。  「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、残り二分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功が見えるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである」」p.41
・「封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。(中略)封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。その本質は、家族制度の国家への適用であります。」p.53
・「鷹山の倹約はけちではありません。「施して浪費するなかれ」が鷹山のモットーでありました。」p.65
・「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。」p.67
・「日本の農業は、世界でもっとも注目すべき農業であると考えます。土の塊の一つ一つがていねいに扱われ、土から生ずる芽の一つ一つが、親の愛情に近い配慮と世話とを与えられます。」p.79
・「尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。」p.89
・「尊徳は夏、ナスを口にして、その年の不作を予言しました。秋ナスのような味が強くしたので、明かに「太陽が、すでにその年の光を使いつくした」しるしであると告げました。」p.94
・「尊徳から親交をえるためには、常にたいへんな努力を要しましたが、いったん与えられると、これほど尊いもの、また永続するものはありません。」p.100
・「学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にみられ、今日わが国でも模倣しているような学校教育とは、まったくちがったものである。まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。」p.112
・「『大学』(孔子)には、次のように書かれていました。  天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある。」p.116
・「陽明学の形をとった中国文化のお陰で、私どもは、内気で、臆病で、保守的、退歩的な国民になることはなかったのだと考えます。」p.132
・「宗教は人間の最大関心事であります。正確に言うならば、宗教のない人間は考えられません。私どもは、自分の能力をはるかにこえる願いごとをもち、世の与えうるよりも、はるかに多くのものを望むという、妙な存在なのです。この矛盾を取り除くためには、行動はともかく、少なくとも思想の面でなにかをしなければなりません。」p.141
・「きびしい社会差別のあった時代に、宗教の道は、低い身分に生まれた天才が、世に自分の存在を示しうる唯一の道であったのです。」p.149
・「それは「衣法不依人(えほうふえにん)」、真理の教えを信じ人に頼るな、との言葉であります。」p.151
・「その後の日本に蓮長にならぶ僧侶は出ていません。一つの経典と法とのために、自分の生命をとして立ったのは蓮長だけであります。」p.158
・「日蓮の論法は粗雑であり、語調全体も異様です。日蓮はたしかに、一方にのみかたよって突出した、バランスを欠く人物でした。だが、もし日蓮から、その誤った知識、生来の気質、時代と環境とがもたらした多くのものを取り去ったとしましょう。そこに残るのは、しんそこ誠実な人間、もっとも正直な人間、日本人のなかでこのうえなく勇敢な人間であります。」p.171
・「たしかに日蓮の生涯は、マホメットから多妻主義をさしひいた生涯を思わせます。同じように強靭な精神と異常なほどの熱狂性があります。しかし、あわせて、共に目的のための誠実さと、内面には深くてやさしい慈愛の心が、豊かに両者にはあります。ただし、その日本人の経典に対する確信は、あのアラビア人がコーランに対して抱いたものより強く、この点で私は、前者の方が後者よりは偉大であったと信じるものです。」p.175
・「日蓮の大望は、同時代の世界全体を視野に収めていました。仏教は、それまでインドから日本へと東に向かって進んできたが、日蓮以後は改良されて、日本からインドへ、西に向かって進むと日蓮は語っています。」p.176
・「闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります。」p.177
・「武士道は、まだ未完成なもの、現世的なものであります。美点が多くあるにもかかわらず、それは、たとえば世界に無比の富士山のようなものです。世界に無比ではありますが、結局は死せる山にすぎません。」p.182
・以下『解説』より「ところが、日清戦争の終結ころから、内村はその戦争がまったく期待を裏切り「義戦」ではなかったことを知り、本書をはじめとして、おおいに世に「義戦」を訴えたことを激しく恥じた。」p.199
・「私の貴ぶ者は二つのJであります、其一はJesus(イエス)であります、其他の者はJapan(日本)であります、本書は第二のJに対して私の義務の幾分かを尽くした者であります。」p.205
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