ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】幼児と音楽 なにが大切なのか

2007年06月28日 21時10分53秒 | 読書記録2007
幼児と音楽 なにが大切なのか, 園部三郎, 中公新書215, 1970年
・理論よりも著者の経験、そして家庭よりも幼稚園や学校での音楽教育を中心に据えた内容。音楽教育についての主張のポイントとしては、『子供の行動を遮らない』ことと『バランスよく音楽に触れられるような環境作り』でしょうか。
・小学生の頃、縦笛でテレビのCMソングやアニメソングを吹くのが流行し、ある日それが運悪く教室前を通りかかった先生の耳に入り、「こら! いま、ふざけた曲を吹いてたのは誰だ!!」と一喝。犯人が名乗り出たところ、「よし。何を吹いてたのか、今ここで一曲吹いてみろ」との事で、縦笛の名手が一曲披露。「さっぽろ さっぽろ さっぽろいちばん みそらぁ~ぁめん♪♪」 教室内は先生も生徒もバカウケ。続けて演奏すること数曲。ちょっとしたリサイタルの後、無罪放免となりました。本書を読み、記憶に蘇ったエピソードです。
・「この本は学問的な研究の本ではない。幼児を教える教師や、子どもを育てている家庭の親たちが、日常生活のなかで、子供と音楽の関係について、いろいろな希望や願い、あるいはまたさまざまな疑問を解こうとしてぶつかる困難等々について、いっしょに考えてみようとする本である。」p.i
・「最近の子供たちは、学校の音楽の時間に教わる歌や音楽よりも、学校以外の社会的環境、とくにマスコミを通じて聞く音楽に、量からいっても質からいっても、ひじょうに大きな、そしてまた強い刺激を受けてきている。すでに明治時代から「学校唱歌校門を出でず」という名句があるくらいで、学校で教わる音楽は、子供たちにとってはけっしておもしろいものではなく、学校の外でおぼえるおとなの流行歌(中略)のほうが、ずっとおもしろかったのである。」p.8
・「わたしの考えでは、教育とは、おとなが子供に一方的に強制することではなくて、子供が、何よりもまず自分自身でより多くのことを知ろうとし、またより深い理解をもとうとするからこそ、おもしろいからこそ、それをわがものにしようとする意欲がもえあがる。」p.9
・「結論をいそいでいうならば、根性というものは、親や教師のとっておきの占有物ではなくて、なによりもまず子供自身のなかから生まれ出なければならないものなのである。そして、どんなにむずかしくとも、そのような心理的条件を子供に持たせる教育こそが、真の教育ではないであろうか。」p.11
・「おとなの流行歌のなかには、それがどんなに流行しても、幼児のあいだでは、少しもうたわれないものがある。それは、内容の如何にかかわらず、いわゆる情操的な要素が強いもので、一般に子供がうけつけないのである。」p.16
・「子供がわけのわからぬ節まわしでうたい、ただリズムだけで発声し発音し運動する、もっとも初期の情動活動をよく見守り、大切にして、それを音楽に発展させ結びつける音楽教育を考えることこそが、これからの子供の音楽を考える根本であり、そして、それは教育者にとっても父母にとっても理解されなくてはならぬ、根本的なことがらなのであろうと、わたしは考えている。」p.20
・「この事実からみると、人間(この場合は幼児)が生活のなかで、自分自身が体験したことを、口や唇や舌など、自分自身の体の一部を直接使って再現することのできるのは、聴覚を通しての音だけである。」p.23
・「問題は、この「君が代」が、法的には国歌として制定されていなかったにもかかわらず、今日もなお国歌だと思いこんでいる人がたくさんあるほど、事実上の国歌扱いを受けることになってしまったことである。」p.44
・「以上のようなことがらは、おとなや教師はつねに子供の発達段階に応じた方法を見つけ出さなくては、正しい教育方法が発見できないことを物語っていると思う。」p.70
・「要は、美しくすぐれた詩が、すぐれた音楽にうつされ、それをりっぱに音楽的に教えること自体が、もっとも大切な目標なのである。」p.73
・「しかし本来、音楽は、わかるとかわからないというものでなくて、それぞれの人々に存在価値があるものだと、わたしは思っている。」p.76
・「人間の耳に感じとれる音の大きさの単位は、ホン(Phon)と呼ばれるが、普通の人が聞くことのできるもっとも小さい音を最小可聴値0ホンとする。すると、人間が聞くことのできる最大の音は、約130ホンとなる。そして、一般に大きすぎる音は約80ホン以上の音を指していうようである。」p.97
・「音楽の訓練は、まず第一に子供がその先生に親しみ、そのレッスンを喜び、そして音楽することをも楽しみにするということが、基本条件でなければならない。」p.103
・「一般的にいうなら、三、四歳から本格的なプロ修業的な個人レッスンを受けるよりも、むしろ五、六歳までの幼稚園などの段階では、集団生活のなかで、情動活動と結びついた音楽教育を受けることのほうが大切である、とわたしは思う。」p.104
・「おもしろいことに、わたしの知るかぎりでは、ほとんどすべての母親が、「もしできるなら、子供をプロの音楽家にしたい」と内心で考えている。しかし、教師のほうから、「将来専門家にするつもりなのですか」ときかれると、「いいえ、そんな大それたことは」といって、ほとんどすべてのお母さんは否定する。」p.108
・「ただ、すぐれた音楽家になる人は、本来どの教科でも、やれば普通以上の能力があるはずの人だったということだけは事実であろう。」p.110
・「そこで、音楽教育界には、「音楽教育のはじまりは鑑賞である」ということばが金科玉条となっていて、幼い子供たちが自分でうたったり弾いたりすることよりも、鑑賞(聞くこと)を必要以上に重要視する傾向がある。」p.115
・「音楽というものが持つ「意味」は、ひじょうに抽象的なもので、具体的なものは少ない。」p.125
・「保育園や幼稚園、あるいは一般学校教育のなかでは、子供を音楽好きに育てるということが第一の条件であって、個人授業の場合のように、楽器を弾く技術や歌をうたう技術などを特別に綿密に教えることが主要目的ではない。」p.126
・「子供の教育は、なにごとも遊びと結びついた点から出発し、そこで自然で素朴な体験をして、それから抽象的な「音」の世界にはいっていかなくてはならない。」p.180
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