ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【食】手打ちそば ちく林 [和食@伊達]

2009年04月08日 22時07分12秒 | 外食記録2009
手打ちそば ちく林(てうちそば ちくりん)[和食@伊達][むしゃなび][食べログ]
2009.3.9(月)11:00入店(初)
注文 もりそば(十割そば)+ タコと長ネギのかき揚げ 1100円

  
・こちらのお店は、伊達I.C.から延びる道と国道37号線の交差点を海側へ100mほど入った場所に建つ一軒屋です。
  
・広々として明るい雰囲気の店内はカウンター4席、イス席5卓、座敷4卓に加え、奥にイス席の個室もあるようです。

・せっかくなのでそばは200円増しの十割で注文。
  
・そばは細めながらしっかりとコシがあり、写真ではわかりづらいですがほんのり緑がかった色をしています。そばツユは濃い目で『そばらしいそば』といった雰囲気。素直に美味しい。
  
・タコと長ネギのかき揚げ。サクサクの軽い食感。
・家族で「そばでも食べに行こうか」という時に、(親)「じゃあ『ちく林』にしようか!」 (子)「ヽ(*´∀`*)ノ ワーイ!」という画が浮かぶような、お気楽な雰囲気が良いです。お気楽でありながら、そばは地味に美味しく、実はかなりの高レベルという印象。これまで伊達のそば屋は何軒か訪れましたが、今のところここがNo.1。

  
 
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【本】マノン・レスコー

2009年04月08日 08時13分13秒 | 読書記録2009
マノン・レスコー, アベ・プレヴォ (訳)川盛好蔵, 岩波文庫 赤519-1, 1929年
(Prevost HISTOIRE DE MANON LESCAUT ET DU CHEVALIER DES GRIEUX 1831)

・恋愛小説の古典。蠱惑的な女、マノン・レスコーと、それに振り回され続けるシュヴァリエ・デ・グリューとの物語。シュヴァリエの恋への盲目っぷりと無茶ぶりは、もうここまでくると天晴れです。
・『椿姫』の序盤で、マルグリット(椿姫)の遺品として登場したのが印象に残り、手にとった本。椿姫が読んだのと同じ本を、現世で自分も読むというのが不思議な感じ。
・もってまわった言い回しが多く、読むのに少々手間取る。
・「それはホラーチウスの次の掟にも明らかである。曰く、
 即ち今直ちに言うべきものを直ちに叙べ、
 しかも大部分はこれを差し控え、かつ差し当たり省略するにあり。
」p.5
・「六人ずつ並んで、胴のところを鎖で繋がれた件の一ダースの売笑婦たちのなかで、一人、姿も顔だちもこの場には甚だ不似合いな、ほかの様子をさせたなら上流の身分の者と見えたかもしれぬ女がいた。彼女の悲歎も、下着や衣服の汚さも、彼女を少しも醜くはしていなかった。そのために、彼女を眺めて敬意と憐憫の情を誘われた程であった。」p.13
・「――それは私がそのために世の中で一番不仕合せな人間になった程、それほど激しい情熱で彼女を愛しているということです。」p.15
・「未だかつて異性のことを考えたこともなければ、注意して女を眺めたこともない私が、私は言うが、その賢さと慎しみ深さをあらゆる人々に嘆賞されていた私が、一挙にしてのぼせ上がってしまうまで情熱を煽られた程、それほど彼女がうるわしく私におもわれたのである。」p.21
・「彼女は、もしも私が彼女を自由にしてやれる少しの希望でも見つけ出せるなら、いのちよりももっと大切なものを私に払わねばならぬように思う、と私に告白した。」p.22
・「まあ、なんという驚くべき出現であろうか。私はそこにマノンを見たのである。それは彼女であった。しかも今までに見たよりもいっそう愛らしくまたたけていた。彼女は十八歳の齢を重ねていた。その艶やかさは言語を絶していた。世にもたおやかに、世にも麗しく、世にも蠱惑的な、それは恋そのものの姿であった。彼女の姿態は隅々まで私には一つの蠱惑だった。」p.48
・「かくも熱烈な、かくも愛情に溢れた懺悔に感動しないような野蛮人がどこにあるだろう。私は、この瞬間には、マノンのためにならキリスト教界のどんな司教の位をも犠牲にしなければならぬと思った。」p.53
・「私たちの唯今のようなありさまでは、貞節などは馬鹿げた徳だとは思いませんか。パンに不自由しながら人は恋を語れるでしょうか。飢えのために私は抑えきれぬ軽侮の心を起こすかもしれません。」p.74
・「なんの因果から、と私はつぶやいた。――自分はこれ程までの罪を犯すのだろう。恋は浄らかな情熱であるのに、どうして私には、不幸と放埓の泉となってしまったのか。」p.78
・「――僕の結論はこれだけのことだ。つまり、人に恋を厭わせようとするときに恋のよろこびを貶したり、美徳を行えばいっそう大きな幸福が来ると約束したりするほど、下手な方法はないということだ。我々の性質から考えてみれば、人間の最大の幸福は確かに快楽のうちに在る。」p.100
・「彼女は手に持つ鏡を男に差し出して、  「ごらんなさい、あなた、と彼女は言った。――ようくお顔をごらんになって、それからご返事をなさいませ。あなたは私に愛をお求めになります。私の愛する人は、生涯愛することを誓った人は、ここにおりますが……。どうぞご自身でお較べ下さい。もしこの人と私の心を争える自信がおありでございましたら、いったいそれはどんな根拠からであるかおっしゃって下さいませ。ところであなたの最も卑しい召使いの私の目には、イタリー中の公爵がたも私のつかんでいる髪の毛の一筋の値打すらないことを、私はきっぱりと申し上げます。」」p.136
・「神が私をその最も冷酷な処罰をもって打擲するためには、私は自分の生涯を通じて、私の幸運が絶頂に達したと思われる時を常に選ぶのを知った。」p.138
・「ただ、いとしい女よ、僕の気にかかるのはお前のことだ。こんなに可愛いひとになんという運命だろう。神よ! あなたは自分の最大の傑作を、どうして、かほどまで冷酷に扱うのですか。僕たちはお互いに我々の不幸に似合いの資格で、なぜ生れては来なかったろう。僕たちは機智と、趣味と、情操とをもらって来た。ああ! 僕たちはそれをなんと悲惨に使用するのだ。一方では、私たちのような目に遭ってこそふさわしい、あれほどの卑しい人間どもが、運命のあらゆる歓待を楽しんでいるのに!」p.177
・「「恋よ、恋よ、お前は永久に智慧とは融和しないのだろうか。」私の立ち去る姿を眺めて、この謹厳な法官は叫んだ。」p.181
・「私は、意識を失った瞬間は、このまま永久に生命から解放されたのだと信じたほど、それほど苦しい心臓の鼓動を感じて卒倒した。再び我に帰った時にもなお死に直面したようなこの心持は私に残っていた。私は室内のあらゆる部分を、また自分自身を、まだ私が生きている人間の不幸な資格から解放されていないかどうかをたしかめるために、眺め廻した。苦痛からまぬがれようと求める本能的衝動に駆られながらも、この絶望の、茫然自失の瞬間においては、何物も、死ほど私には懐かしいものはなかった、ということはまさにたしかだ。私の苦しめられた残酷な痙攣よりもいっそう耐え難い何物をも、この世に生れて以来、宗教でさえ私に考えさせたことはなかった。しかしながら、恋に特有の奇蹟によって、私は意識と理性とを返してもらったことを神に感謝するだけの十分な力をまもなく取りもどした。そのとき私が死んでしまったら、その死は自分だけにしか役にたたなかったであろう。マノンを自由にし、マノンを救い、マノンの仇を報じるためには私の生命が必要だった。私はそのために私を容赦なく使役することを誓った。」p.186
・「世界中の奴らが僕を迫害したり裏切ったりするのだ、と私は近衛兵に言った。――僕はもう誰一人信用しないよ。僕は、運命にも、もはや何一つ頼まないんだ。僕はこの上もなく不運だ。もう諦めるほかはない。だから、僕はどんな望みも棄ててしまうよ。神様が君の親切を誉めて下さるといい。さようなら。僕は自分から進んで、僕の没落を仕上げるために僕の悪い運命に手をかしてやるのだ。」p.198
●巻末の訳者による『作者について』より
・「さて、『マノン・レスコー』が古今東西を通じて恋愛小説の王座に位していることはいまさら説明するまでもあるまい。いわゆる娼婦型の女性が文学に描かれたのは、この小説が始めてであるといわれている。女性の魔力に最も敏感であり、女性の肉体と心理の地図に最も詳しかったモーパッサンは、かつてマノンについて、「いかなる女もかつてマノンにおけるほど詳明に、完全に描かれたことはなかった。いかなる女もマノン以上に女であることはなかった。かくも甘美であると同時にかくも不実な、恐るべき女性的なものの精髄をマノン以上に備えているものはかつて存在しなかった」と書いたことがある。もしこの物語を読んで、シュヴァリエ・デ・グリューのあまりのだらしなさに眉をひそめる人があるとしたら、その人は真実の恋愛とは、また女に迷うとは、いかなることであるかを知らない人である。(中略)人間が人間であることをやめない限り、男は常にマノンのような女のために生命をなげうつことを厭わないのである。」p.234
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