続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

M『公園』

2011-11-07 07:49:25 | 美術ノート
 昨日横須賀美術館で見たルネ・マグリットの『公園』

 あたかも一人の人物が単に二つに切り離されているような感があるこの作品。よくみればこの二つの人物像の断片は決してつながらないことが判明する。
 正面から捉えた人物の顔はやや斜を向き、こちらを正視しているわけではない。背景は石壁(石柱?)
 しかし背中が描かれたもう一方の同一人物と思われた背景の至近距離にはその石壁がなく、すぐ右脇に動揺の石壁が顔の大半を隠して存在している。

 明らかに二つの異空間が平面に並置されて描かれ、それを一つの作品世界にしている。

『公園』と名づけられた作品・・・確かに公園である要素は樹木の林立した手前の平地に於いて想像は可能である。
 樹木の林立・・手前の木の上方は間に木の葉を描いてその先の木の太さは微妙におかしい。太さがつながらない・・・木が上方に向かって太くなるなんてことがあるのだろうか。
 作品の石壁から見た焦点はここに描かれた成人男性の胸の辺り・・・子供の目線である。
 こうは考えられないか・・・つまり公園であった広場、そこに生育した樹木の歳月、歳月の営み。

 石壁(人工物)・樹木(自然)・人物。

 冷たく磨かれ切断された石の建造物である背景・・・これは社会の暗示かもしれない。
 陽光薄き林・・・自身の胸の中(時の経過)、過ぎ去った時間、少年時代への回顧。
 帽子、ネクタイ背広姿の社会人としてのわたくしかもしれない人物。この人物の腕の長さは尋常ではない。どこまで伸びるのか・・・連想が脚にまで及ぶと彼(この人物は)奇妙に画面から浮き出してしまう、あたかも亡霊の如くに。彼(描かれた人物)の所在は不明でさえあるのだ。

 この切り離された時空から見えてくる不思議な哀愁。過去と現在を切断し、並置したようなシュールな空間。
 現在の中の過去、過去の中の現在。この異空間を浮遊する自身の精神。茫漠とした自身を冷徹な眼差しで描いた『公園』。
 安らぎの空間であるべき公園は、無抵抗(真直ぐ)に育った樹木の凝視しなければ悟られないほどの変異をともなって、歳月の経過と共に被い尽くすほどの暗渠と化している。

 社会に向けた礼節正しい紳士である顔と、背後に潜む深い翳り。
 二つの分断された人物の眼差しの方向>90度をもって描かれている可能性が高い。つまり、焦点の拡散である。絵の中の焦点は林の暗さの中にあり、確たる意味を消失している。しかし二人の眼差しの別世界を望む眼差しには引き裂かれた心情を示唆する暗示がある。鑑賞者の眼は、一点を凝視できず画面いっぱいを注視させられるが、実は何らかの喪失感に空漠とした印象を残すのみとなる。その静かな情感こそが作品の本質であり、マグリットの秘かなる意思が潜在しているように思う。
 単に切り取っただけに見える平面の部分接合に、深い悲しみの情感が抑制された形で描かれている。

《描かれた人物はわたくしであって、断固わたくしではない人物である》
 マグリットは自分のことしか描いていない、言わば告白である。(自分の存在確認を検証している)と言い換えてもいいかもしれない。

怖い?全然!

2011-11-07 06:43:49 | 日常
 植物観察で馬堀自然教育園に行った昨日。小雨そぼ降る園内・・・ありました!

《きのこ》

 O先生が調べてくださった本によると(食)とあり、大安心。でも先生からは「食べるのは止めなさい」と忠告された。

 平気で無視のとんでもないわたし・・・周りの聴講生たちからも「止めなさいよ・・・」の声。

「皆様にはもうお会い出来ないかもしれません」(死んじゃうから)というコメントを残して家に持ち帰った。

 二週間前の内緒で持ち帰ったきのこよりやや小さめ・・・でも(食)のお墨付き。
 フライパンにマーガリンをひいて軽く過熱・・・お醤油をかけてお茶うけ(?)に。

 危ないことの好きなわたし・・・そのうち本当に死んじゃうかも。