まさかね、こんな年まで生きているなんて想定していなかったから、これからを考えるとまごついてしまう。
「70才なんて若いわよ」と先輩方。
なるようにしか為らないけど…《生きているんだ》つて不思議な実感。年寄りが出しゃばっちゃいけない、自重し粛々と時間を踏み越えていく。
昨日のサークルでも話題は《健康》。どうしたら体力維持を貫けるのか、風邪をひかない生活習慣は?など。
「でも、あと少しだけどね」と、誰言うとなく呟いた一言に爆笑。
《有終の美》という言葉がある、《終わり良ければ総て良し》ともいう。
どうやらまだ生きるらしいので、がんばらなくちゃならない。 恥ずかしがり屋を返上して、楽しく笑って過ごしたい!
老醜という厳しい言葉もあるけど、ありのままで行く。
『人間嫌いたち』
カーテンの林立。左端に見える樹に比し、恐ろしいほどに高く擬人化というにはあまりにも巨きい。
カーテンに人格を感じるべくもないが、立ち姿は垂直であり乱れがない。しかし、垂直に垂れているということは、支配に従っているということかもしれない。
しかし、カーテンはタッセルで片側に寄せられ開いており、その並びに規則性はなくランダムであり、上方に高く伸びた形は解放的である。
解放と閉塞が一体化したようなカーテンの林立。
『人間嫌い』と称したこの景色の彩色に明るさは認められず、擁壁のような陰鬱な空気感のみが充満している。にもかかわらず、この直線的な林立にはどこか強い意志を感じる。尊厳、誇りと換言してもいいかもしれない。
カーテンそのものの役目は『隠蔽』である。
見せないが、見る。自身は隠れているが、世界の眺望には果てしないほどの関心がある。人間嫌いの景は淋しくもこうした空気感に違いない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「そいぢゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を拾円も買って帰ればいゝ。」
☆接(つながる)霊(死者の魂)を策(探し求める)。
昵(慣れ親しむこと)は宿(かねてから)の憶(心にとめていること)である。
算(見当をつける)帖(ノート)は、自由に縁(つながり)の媒(なかだち)をする記である。
つまり、この事件についてはなにも聞きたくない、なにも言わず、考えず、絶対にかかわりあわないですましたい、とおもわれただけなのです。
☆つまり、先祖の恐怖(畏敬)については、何も言わず、考えず、絶対に関わり合わないですませたいと思ったのです。