『稲妻』
花瓶に盛られた花が平面化し、単色(グレー)に変化している。バックは窓というより額縁のように見え、緑は草であり、窓外の景色である。
外光、光を分解して鮮やかな画面、空気感を醸し出す新手法である印象派を客観視した作品ではないか。
たとえば茶系(暖色)にブルー(寒色)を混ぜるのではなく、各色を分散させて置き、離れた位置から見ると混ぜたように感じられ、しかも色そのものの鮮度を失わないという視覚への挑戦である。
しかし、マグリットの我意とはズレがあったと思われる。
『稲妻』放電、光の束は、むしろ鮮明さを一蹴してしまう。作為の微妙な仕掛けには曖昧さは適合しない。
混色の妙は、マグリットの律でもある。
印象派の手法には惹かれるが、この花瓶に盛られた花を微妙な単色に解釈した所にこそマグリットの狙いがあり、答えがある。
『稲妻』の衝撃はマグリットの精神を貫き立ち止まらせ困惑させたに違いなく、時代の風を正面から受け止めたマグリットの熟慮だと思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんです。
☆字の図りごとで現れ、換(入れ替わる)律がある。
言(ことば)を換(入れ替えること)と、吐く。
施(設けた)図りごとは、連(つらなっている)。
画(はかりごと)の素(もと)は、日(太陽)の律(物事の基準となる決まり)を把(つかむこと)である。
かとおもうと、バルナバスとふたりでいっしょにすわりこんで話しこんでいることもありました。バルナバスは、事件の全体がようやくほんのすこしわかりはじめたころで、たえず熱っぽく説明を求めるのでした。
☆あるいは、たびたびバルナバスと一緒にいることもありました。
バルナバスはほんの少し全体を理解し始め、たえず烈しく明らかにすることを求めていました。