続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

笑止。

2017-01-30 07:28:50 | 日常

 やりたいことは沢山ある(ように錯覚している)。

 けれど指折り数えるまでもなく、終了時間は迫っている。
『はい、ここまで』
 にっこり笑い、わたしをどこか違う世界の扉に誘導していく誰かの手が突然差し伸べられる。

 覚悟!

 覚悟のその日が来るまで、どうにもきっちり片付けられない曖昧な信念を道連れに歩いていく。(それでもいいじゃないか)とか細い声がする。
(それでもいい)と、素直にうなずく。

 笑止、そういう人生。
(それでもいいじゃないか)と繰り返し、自分に言い聞かせている。


マグリット『会話術』

2017-01-30 06:56:39 | 美術ノート

 『会話術』

 Espana/スペインと読める文字が浮きでている。
 海・平原(丘)・山稜・空を覗く開口は神殿を暗示している。
 闘牛士によって頭部をぐさりと刺され死んだはずの牛が頭をもたげている。
 半死半生では終わらず、必ず死を確認するまで剣を突き刺す格闘技。

 残酷極まりないお祭りは牛の死をもって拍手喝采となる幕切れに、闘牛士の乗った馬が死んだ牛を引いて退場する。
 牛にとっては無念・屈辱・怒り心頭のフェスティバルである。

《生あるものとして、わたしは告訴したい》死んだはずの牛の魂は訴える。被せられたマントは哀惜のように見えるが、単に葬送の儀礼に過ぎない。《わたしの生は、殺されるための生だったのか…しかも晒し者になり、死ぬことによって拍手喝采を浴びるという非情な仕打ちを受けるために・・・》

 牛は人間の言葉を知らない。
 成り立つはずのない会話、海の水が空に侵入し丘の上を船が走行する不条理、世界の律が破綻する景色の中で、死んだはずの牛は頭をもたげ、この不条理を訴えているに違いない。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『城』2542。

2017-01-30 06:29:58 | カフカ覚書

ところで、わたしは、さいわい、あのころよりいまのほうがアマーリアをよく理解しているつもりです。アマーリアは、わたしたちみんなよりも多くの重荷をになっていたのです。あの子がどうしてそれに耐えぬき、いまもこうしてわたしたちといっしょに生きているのか、ふしぎなくらいですわ。


☆ところで、運のいいことに当時よりも現今の方がアマーリアを理解できています。彼女はわたしたちよりもより多くを担っていたのです。それをどう耐えたのか、今なおわたしたちの中で生きているのか理解できないくらいです。