『記憶』
忘れないで覚えていること…。古代彫刻の石膏像頭部の額に流れる鮮血、即ち傷痕である。
手前には女性あるいは美を象徴する薔薇が一輪、背後には言葉(伝説・物語・噂・流言など)を暗示する鈴がおかれ、台には木目が見えている。(木目=死界の暗示)
遠く見える水平線はざわざわ波立っており、海とのけじめも定かでないような空は暗雲垂れこめているが、遥か頭上は白い雲の兆しが見える。(これは異世界/現世との媒介の空かもしれない)
どの角度からも明るさは見えず、陰鬱極まる苦渋の景である。
悲しみの支配する景は静寂であり、攻撃のエネルギーは微塵もない。諦念・・・赤いバラとしての誇り、自分の主張(鈴)は背後で確信となって存在している。
しかし、手折られた薔薇はその後の活性を約束されない。
『記憶』この情景に未来はない、あくまでも時は進展せず、忘れないという過去の時間に留まり、口惜しさを静かに受け止めている。
赤い血の鮮血は、記憶の中で空を苦渋の曇天と化しているのかもしれない。
『忘れない=記憶』は、胸の中で生き続けている。ただ遠く、復活の自由を許されていない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「君、ちゃうどいゝ。こゝはこれでなかなか開けているんだ。入らうぢゃないか」
「おや、こんなとこにをかしいね。しかしとにかく何か食事ができるんだらう」
「もちろんできるさ。看板にさう書いてあるぢゃないか」
「はいらうぢゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れさうなんだ。」
☆訓(教え導く)解(悟り)、新しい化(教え導くこと)の自記である。
字を換(入れ替えること)で判(区別する)のは、緒(もろもろ)の化(形、性質を変えて別のものになること)である。
嘱(頼む、委ねるもの)は、套(おおわれている)。
もちろん、あの子以外の者にとっては、おたがいに相談しなければならないことがいろいろありました。わたしたちは、朝から晩までたえずひそひそ話をつづけていました。ときには、突然不安にとりつかれた父に呼ばれて、ベットのへりで半夜をすごしたこともあります。
☆彼女以外の者は、もちろん死を朝から晩まで砦の中で考えては小声で話していました。時折、突然不安に取りつかれた先祖に呼ばれベットのへりで半ばの死(本当の死ではない)を過ごしていたのです。