『パリの空気 50㏄』
高さ13.5㎝、円周20.5㎝のガラス製アンプルのなかには50㏄以上の空気が入っているはずであり、パリの空気 50㏄が混入しているということなのか。
空気は無色透明であれば、地域の異なる空気を混ぜても判別は不可能であるし、それを実証する術もない。
『パリの空気 50㏄』とタイトルにあれば、パリの空気 50㏄を肯定せざるを得ない。否定の根拠も見出せないからである。
ガラス製アンプルのなかは誰でも見えるが、誰もその質(成分)を分析できないし、異なる空気の混入は、即一体化するのではないだろうか。こっちとあっちの空気を混ぜるなどという話はむしろ奇想天外であり、無意味である。
この無意味を一つのアンプルに封じ込め、鑑賞者の眼に曝す。このアンプルの中に意味を見出そうとする眼差しへの挑戦である。
やがて気づく空漠の虚しさ…タイトル(言葉)への不審、言葉は対象の内実を厳密に実写せず、虚偽をも許容するということである。
『パリの空気 50㏄』は、デュシャン自身の命題である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「まあいゝだらう。ぼくね、どうしてもわからない。あいつはカシオペーアの三ツ星だらう。みんな青い火なんだらう。それなのに、どうして火がよく燃えれば、雪をよこすんだらう。」
☆太陽は照(あまねく光が当たる=平等)である。
章(文章)は化(形、性質を変えて別のものになる)で化(教え導き)念(考え)を接(つないでいる)。
とにかく、わたしをそうして見ていてくださる人は、ひょっとしたら、わたしのことをほかの人たちよりもやさしく判断してくださるかもしれないし、また、わたしが細々ながらも自分の家族のために戦い、父の苦労や労力を受けついでいることもわかってくださるかもしれない。
☆わたしを認めてくれる人は、たぶん他の人たちよりも大まかな判断をしているかもしれないし、ひょっとしたら先祖の悲惨さに気づいているのかもしれません。でも、わたしたち一族は父(宿命)の尽力を継続していくでしょう。