『ガラスの鍵』
もしこのような光景を臨むことができたなら、それは《奇跡》だと確信する。草木も生えない標高の山稜に巨岩石が乗っていることなど、想定外だからである。長い年月の果てに削られて巨岩石がこのような形で残存したのか、地球外から飛んできた石なのか・・・。
《この光景ありき》で始まる展開には、重力の関係から転倒・崩壊は免れないのではないかという疑惑が付着する。
このまま留まる神秘は通常の観念(物理)を凌駕し、精神界の領域である。
祈りの高揚は、人を俗世から離脱させ、宇宙の神秘に近づけさせる。
現実を問い、非現実を仰ぎ見るときの世界の一体感には恍惚の喜悦があり、何もない光景には大いなる神秘への誘いの震撼がある。
「もしも・・・」人は問い続け、その答えを希求している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男は、金いろの眼を皿のやうにし、せなかをかがめて、にしね山のひのき林のなかを、兎をねらつてあるいてゐました。
ところが、兎はとれないで、山鳥がとれたのです。
☆太陽の談(話)は、祀(神としてまつり)、合(一つになる)。
太陽の談(話)は襟(心の中)の幻であり、新しい。
太陽を臨(のぞむ)途(みちすじ)を吐く。
太陽は超(とびぬけて優れている)。
こういう場合でも、もちろん、例外はあります。そして、ややもするとこの例外にたぶらかされてしまうのです。かんばしからぬ噂をたてられている人たちなのに、結局は採用されるというようなこともあります。
☆当地では、明らかに例外はあります。まさに死体に惑わされてしまうのです。評判の悪い人たちもこのような評判にも拘わらず、最終的には正式に終わり(死)として受け入れてしまいます。