『螺旋のある円盤』
7枚の不ぞろいの紙製円盤、青色の紙製円盤の上に取り付けされ厚紙のうえに固定したもの。
それぞれの螺旋を持つ円盤は同心円だから、仮に廻せば、円状の線を持つ平面になり異なる印象の映像を作りだす。
円には回転させるという連想を常に抱かせる要素があるが、青色の盤を回転させたなら、その中にある7つの不ぞろいな円盤は一つに融合し、想定外の色面を現出させるに違いない。
円盤の持つ特性である回転によって、静止していた時とは全く異なる視覚を鑑賞者に与えるということは経験上、容易に想像が着く。
静止状態に存在した色面図は、回転によって消失し(非存在)、回転することで、新しい展開としての色面図の存在を露わにする。
無かったものが有るという状態に移行する、見えたものを存在と称するならば、この現象も確かに存在と言わなければならない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
日光は桃いろにいつぱいに流れました。雪狼は起きあがつて大きく口をあき、その口からは青い焔がゆらゆらと燃えました。
「さあ、おまへたちはぼくにつておいで。夜が明けたから、あの子どもをおこさなけあいけない。」
雪童子は走つて、あの昨日の子供の埋まつてゐるところへ行きました。
☆化(教え導く)講(話)は、等(平等)である。
流(広める)説(話)を弄(思いのままにする)。
鬼(死者の魂)が題(テーマ)の講(話)である。
講(話)を照(あまねく光が当たる=平等)に縁(つなげる)念(思い)也。
詞(言葉)で鬼(死者の魂)を接(つなぎ)導く。
旨(考え)は双(二つ)ある。
策(企て)の化(形、性質を変えて別のものになる)である詞(言葉)は、教(神仏のおしえ)を毎(そのたびごとに)交(まじえている)。
もちろん、問題は、そういうチャンスがいつ見つかるかということですが、ときにはいきんり、そこへはいっていくやいなや、あたりを見まわすやいなや、チャンスが到来することもあるのです。初めてお城へ行くなり、そういうチャンスをつかむだけの沈着さをだれもがそなえているとはかぎらないでしょう。
☆もちろん、このようなチャンスがいつみつかるかということですが、ときには、すぐにそこへ行くことも振り返り見ることもなくすでにチャンスに恵まれているということもあります。先祖の傷痕を持つ誰もがそうした沈着な心構えを持っているわけではありません。