『喜劇の精神』
切れ込みが入った人型の紙(平面状のもの)が床面に対し立っている。その陰影は床に落ちているが、壁と思われる箇所にはついていない。つまり背後は、壁ではなく深い闇のような空間である。
この切れ込み、折り畳んで刻んだというものでなく、ある一点(胸の辺り)をもって回転して居り、この広がりは無限を意味しているかも知れない。(折り畳んだように見えるが折り畳んだ軌跡がない)
単純に見えるが、きわめて複雑な構造を有して計算されている刻みの配列。
床面は平らにも坂にも見え、男は降りて行くようにも振り返りターンするようにも見える。
なぜ紙状であって肉体がないのか、血肉の喪失は存在の希薄でもある。『喜劇の精神』が自分(尊厳)から脱却して全うすべき仕事ということだろうか。換言すれば、自分を隠すことである。刻まれて向こうが透けて見える薄っぺらな存在、どちらへ行こうとしているのか、どちらを向いているのかさえ特定できない。
特定・推定を否定し、何物でもない存在としての立脚は、背後に大きな不確定な闇を抱え込んでいる。
『精神』ではなく『喜劇の精神』としたのは、マグリット自身の自嘲であり、これはマグリット自身の精神の吐露だと思われる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男はひとりでこんなことを言ひながら、どうやら一人まへの木樵のかたちに化けました。
☆太陽の談(話)が現れる逸(隠れた)図りごとは黙って照(あまねく光が当たる=平等)を化(教え導く)。
また、わたしと従僕たちとの生活についても、世間からどういう眼でみられるかということにたいして、わたしにはなんの力もありませんでした。
☆わたしの生活は従僕たち(死人たち)と共にありました。もちろん小舟の影響がどう評価されるのかどういう風に迎えられるのかをただ思っただけかも知れません。