落胆、抗することの出来ない力で突き落とされていく。
年を重ね、老年の域に入っているわたし。
「そうか、もうお婆さんになったのか」当たり前のことに驚いている。
ただでも不格好な身体に拍車がかかってきた。街のショーウインドウで見かけるわたし、背中が曲がり、O脚が進み、白髪頭の姿はどこから見ても老婆然としている。
(まあ、いいか・・・)
自然に枯れていく、自然の理を外さずに生きている。思いがけずエコノミークラス症候群にもかかり、歩行困難の笑止。なのに無理して家中の網戸を外して洗い、カーテンの洗濯・硝子戸磨き…半期に一度の掃除は欠かせないとばかり挑んだ結果は、腰を痛め、身体を捩ってため息をついている。
(ああ・・)
言葉が出ない老年期の滑稽。
『与えられたとせよ:⑴落ちる水、⑵照明用ガス』(作品の扉から眺める景色)
落ちる水(雨)の循環(三態)と照明用ガス(太陽)のエネルギーは、地球上生物の必須条件であり、人が生きる前提条件である。
デュシャンは初めての日、人類の根源、DNAの起源を想定し、存在と叡智を問うている。
隠しようのない欲求は、如何に目覚めたか。またそれを隠すべき本能と覚った原初の人智を追及している。
覗き見た光景の裸婦の大股開きへの肯定と否定(欲求と嫌悪)は衝撃である。仰向けに恥部を曝した女は照明用ガス(燭台)を掲げている。女は生きて生命の灯をあたかも象徴のように掲げている、真昼の空の下で。
遠景には緑豊かな森林が見えるのに彼女が横たわるのは枯れ草である。なぜ緑草ではないのか・・・枯草は(死)である、死の床にガス灯(希望)を掲げた意味は、《生と死》の連鎖・循環の永続の暗示ではないか。
《生命連鎖の原点を凝視せよ》これは一種の命令形である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「もういゝよ。」雪童子は子供の赤い毛布のはじが、ちらつと雪から出たのをみて叫びました。
☆説(話)を導くのは詞(言葉)である。
詞(言葉)で教(神仏のおしえ)の釈(意味を明らかにする)。
普く説(話)を推しはかるのは、教(神仏のおしえである。
そういう人間が正規採用の手続きを踏むと、その結果が心配で何年間もおちおちしておれません。世間のひとっちは、びっくり仰天してしまって、どうしてそんな見込みのないことをやらかしたのかと、それこそ最初の日から質問攻めにあうことでしょう。
☆このような方法は長年の結果であり、その結果のために震えてしまうほどです。最初からこのような見込みのないことをしたことに人は驚き問うのです。