紙芝居講座の実演、不特定多数の観客の前で、紙芝居を披露するチャンスである。
演者たちが一丸となって呼吸を合わせ、緊張感をもって見て下さる方たちに共感していただく。簡単なようで難しい・・・。
(片岡直子先生のお顔も見えて、とても緊張いたしました)
『螺旋のある円盤』
(7枚の不ぞろいの紙製円盤、青色の紙製の上に取り付けされた厚紙のうえに固定)
これには決定的な中心がない。どこに焦点を当てればいいのか、眼差しの方向が動いてしまう。と、言うか、対象の円盤が動き出すのである。
各々1枚では静止して見えるのに、全体(7枚)を見る(感じる)と、画面(紙製円盤)がくるくる回りだすのである。
決して動かない静止したものが、不穏にも動きを感じざるを得ないという奇妙。(もちろん対象の大きさや真正面から距離を図って臨むという条件は外せない)
静止状態にあるものが動き出す、無から有の現象が生じるのである。個人的な感想は大勢の感想に一致するが、大勢が同時にこの現象を感じることは出来ない。あくまで配置と眼差しの関係による個人的な現象の体得にすぎず、対象(作品)は、あるがまま微動だにすることはない。
この関係、対象(作品)と鑑賞者との直線的な空間にのみ生じる現象(錯誤)である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
くなくて、ばかで、めちやくちやで、てんでなうてゐなくて、あたまのつぶれたやうなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとして、堅まつてしまひました。
そこで山猫は、黒い繻子の服をぬいで、額の汗をぬぐひながら、一朗の手をとりました。
☆真(まこと)を研(究目)、太陽の平(平等)を告げる。
趣(ねらい)の詞(ことば)には、複(二つ)を学ぶ感(印象)があり、逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)がある。
そんなに悪い状況じゃない。フリーダをとりもどすことはできるさ。あれは、よそから来た男にでも、ましてやこんな助手風情にでもころりとまるめこまれてしまうような女だ。
☆フリーダ(平和)を、とりもどすことはできる。
フリーダ(平和)はよそ(現世)から来た人でもこんな助手たち(知覚・脳・考え)にでも影響される軽薄さがある。