『100粒の雨滴』
雨滴という流動体が固体に変移している。しかも層になったり、でこぼこしていたり、空洞もあるし、線状もある。
しかもこの重量感ある塊は、地上から浮いている、浮上している。
この不条理としか思えない形態に、鑑賞者は呆然とし、面食らわざるを得ない。明らかに《100粒の雨滴》のイメージに合致しないからである。
100粒の雨滴は、数多の雨滴ということだと思うが、その物が結集し固体に留まることは考えにくい。
物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない(五輪峠『春と修羅』より)
温く含んだ南の風が/かたまりになったり紐になったりして(温く含んだ南の風が『春と修羅』より)
苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る(青森挽歌㈢『春と修羅』より)
空気に孔があいたやう(森林軌道『春と修羅』より)
宮沢賢治を読んでいるとわくわくするが、若林奮に通じる思考である。
海だべかど おら おもたれば/やっぱり光る山だぢゃい(高原『グランド電柱』より)
雨滴という形を留めない対象を堅固な異なる物質に置換する・・・眼差しの向こう側の風景の提示である。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
「黄金のどんぐりがすきです。」
山猫は、鮭の頭でなくtまあよかっっといふやうに、口早に馬車別当に云ひました。
☆光の魂は、太陽の平(平等)の経(常)である。
等(平等)の考えは総て魔(鬼)の赦(罪を許す)。
蔑(見下すこと/差別)との闘いを運(めぐらせている)。
もしきみが役所から押しつけられた助手ではなく、たんなる知合いだったら、きみの外観にはときどきなじめないところがあるにしても、われわれは、きっと肝胆相照らす仲になっていたことだろう。この点でこれまでぬかっていたことを、いまからとりもどすこともできるじゃないか。
☆使命として強いられた死ではなく、単によく知られた先祖の(死切られた空間)だろう。わたしたちは多くの傷痕を見たら、妨げになっていたことの特別扱に堪えられないだろう。わたしたちはこの関係を忘れることもできるが、今でも根にもっている。