『不確実性について』
不確実性なものを物量・物質に置換しようという。
不可能を可能にするのと同質なこの難問に挑んだ若林奮の作品の考えると、わたし自身の存在さえ透明になり、見ることの驚異に憑かれてしまうのである。
四角い鋲が均質に打たれている様は、時間の流れを感じさせるが、どこかに小休止のような小さな呼吸があり、それでもそれを圧していく正確な時間の観念がある。無いが確実に在ると考えられる。
四角い筒状の空洞(鉄かアルミか)は、こちらからあちらを見通せる直線的な空間である。もちろんあちらからも見通せるが、それは他者の眼差しということになる。
堅固である木材(有機質)と鉄(金属/無機質)の複合体、観念と束縛(常識)が絡み合う不穏な状況としての空気感、その得体の知れないものに囲まれ、あるいは自ら作り出しているかもしれない非存在に見えるものの置換である。
(写真は横須賀美術館『VALLEYS』より)
一郎はわらつて言ひました。
「さあ、んんだか変ですね。そいつだえはやめた方がいゝでせう。」
山猫は、どうも言ひやうがまづかつた、いかにも残念だといふふうに、しばらくひげをひねつたまゝ、下を向いてゐましたが、やつとあきらめて言ひました。
☆逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)が現れる。
片(二つの分けたものの一方)には、法(神仏の教え)があり、太陽の平(平等)が現れる。
懺(罪の赦しを乞う)念(思い)は、科(罪とが)を考(思い測り)厳しい。
われわれは、もう主人と下僕という関係じゃないんだ。きみだけではなく、ぼくもそれをよろこんでいる。だから、おたがいにだまい合わなくてはならん理由もないということだ。
☆わたしたちはもう主人と従者(大群/生と死者たち)という関係ではない。小舟の原因を喜ぶことなく、お互いに欺いている(思い違い)ことだろう。