『プロフィールの自画像』
(黒色の紙の上に色紙を貼付)
人の横顔が見える、確かに自画像なのだと思っていると、ただの紙切れにも見える。
要するに人物の横顔が見えたり消えたりするのである。黒い部分を認識すれば横顔が見え、色紙の部分を認識すれば、不明な形しか見えない。顔の形態が記憶の中にデーター化されており、データー化に外れる形態は対象を想起できない。
(同一の線描が同じものを想起させるのは直線(山型)もしくは円形だけであるが、ゲシュタルトの図像のように全く異なる対象を想起させる図案もなくはない。)
しかし、ここで言いたいのは『プロフィールの自画像』であり、《存在するが、存在しない》というデュシャンの哲学的表明である。非存在への憧憬と換言してもいいかもしれない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
一郎が「えゝかまひません。」と申しますと、やまねこはまだなにか言ひたさうに、しばらくひげをひねつて、眼をぱちぱちさせてゐましたが、たうとう決心したらしく言ひ出しました。
☆逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)である。心(精神)の真(まこと)を厳しい決(覚悟)で審(正しいかどうかを明らかにする)言(言葉)を推しはかる。
おれからフリーダを奪いとるのに、なにもたくましい男が乗りだしてくるまでもない。たいして食指も動かされないこの助手、ときおりあまり生きがよくないという感じがするこの肉きれでも十分なんだな。
☆フリーダ(平和)を奪いとるのに先祖の力が干渉してくるまでもない、人の気をそそらない助手(脳・知覚)や不正な動きの権力に幾度も押しつぶされた人間でも十分である。