しかし、身分はいやしくても、場合によっては従僕よりもまだ身分が低くても、ずっとずっと低くても、すべての娘たちがもの笑いの種にするような男ではだめで、眼のある娘ならおそらくいつかは魅力をおぼえるような男でなければならないのでした。
☆しかしながら、普通の人であるべきで、多分下僕でもさらに低い者でもだめで、常に作り話を冷笑してはなりません、ひょっとしたら、他の才能ある作り話なら将来興味を見出すこともあるでしょう。
いつまでの墓草を引く音と思ふ
墓草を引いているが、何時までだろう。
草を引く微かな音を墓の中で聞く日も遠からずやって来るに違いない。
いつまでの(何時迄)はカ・ジ・キツと読んで、彼、児、吃。
墓草はボ・ソウと読んで、母、総。
引く音と思ふはイン・オン・シと読んで、員、温、姿。
☆彼の児(子供)には吃(吃音)があるが、母は総員(すべての人)に温かい姿(様子)である。
いつまでの(何時迄)はカ・ジ・キツと読んで、過、慈、吉。
墓草はボ・ソウと読んで、模、総。
引く音と思ふはイン・イン・シと読んで、隠、因、施。
☆過(行きすぎた)慈(いつくしみ)は、吉(良いこと)の模(手本)を総て隠(見えなくする)因(もと)の施(行い)である。
金屏風何とすばやくたたむこと
金屏風、仮想の舞台…たたんだことで日常に還る、その展開に少なからず戸惑いを感じてしまう。(あっ、そうだ・・・)という我に返る気落ち。
金屏風ハキン・ビョウ・フと読んで、襟、病、怖。
何とはカと読んで、禍。
すばやく(素早)はソ・ソウと読んで、蘇、捜。
たたむこと(畳事)はジョウ・ズと読んで、冗、頭。
☆襟(心の中)の病を怖れる。
禍(わざわい)を蘇(思いだし)捜す。
冗(煩わしい)頭である。
金屏風はコン・ビョウ・フと読んで、混、描、普。
何とはカと読んで、加。
すばやく(素早)はソ・ソウと読んで、組、双。
たたむこと(畳事)はジョウ・ジと読んで、状、示。
☆混ぜて描く。
普く加(その上に重ねて)組(組み合わせる)。
双(二つ)の状(形)を示(表す)。
身ほとりや濃き忘年の墓煙
身ほとり(身辺)では、濃いというか重いというかいろいろな苦労が山積した年であった。その苦労を払う、忘れてしまえたなら・・・。いま墓に供えた線香の煙が、一段と濃いように思われるのは、悲しみであり重責からの解放かもしれない。
身ほとり(身辺)はシン・ヘンと読んで、參、偏。
濃き忘年はノウ・ボウ・ネンと読んで、悩、防、念。
墓煙はボ・エンと読んで、模、延。
☆参(比べ合わせること)の偏りを悩み、防ぐ念(思い)で、模(手探りしたので)、延(期日が延びてしまった)。
身ほとり(身辺)はシン・ベンと読んで、親、弁。
濃き忘年はノウ・ボウ・ネンと読んで、能、乏、捻。
墓煙はボ・エンと読んで、暮、援。
☆親の弁(話)では、能(働き)が乏しいので、捻(捻出して)、暮らしを援(たすけて)いるという。
距離を置いてこの画を見ると、四分の一である白い部分だけが浮いて見える。ここに書かれた文字、この文字(言語)だけが意味とほぼ直結している。限定と換言してもいいかもしれない。
次の煉瓦に関してもやや、それに近い感はある。しかし素材や材質あるいは用途を問えばその意味の範囲は大きく広がるので、必ずしも各自が抱く本来の意味とは結び付かないかもしれない。
他の二つに関して言えばほとんどベタの彩色であり、空とも深淵とも限りなく意味を広げ概念としての意味も崩壊しかねない。つまり、ご自由に想像し、意味をご享受なさって結構です、と。
意味は対象に付随し本来抽象的であり、各自の観点には差異が生じているということである。おおむねの感想はこうである、こうに違いないという一般的な意見の集約が、そのものの意味として定着していく。
この画の四分割は巡回し、意味の決定から不明までを示唆している。
『本来の意味』とは否定と肯定の狭間を巡回する浮遊であり、判別の決定を拒否するものである。
写真は『マグリット』展・図録より
「こいつはどうだ、やつぱり世の中はうまくできてるねえ。けふ一日なんぎしたけれど、こんどはこんないゝこともある。このうちは料理店だけれどもたゞでご馳走するんだぜ。」
「どうもさうらしい。決してご遠慮はありませんといふのはその意味だ。」
☆済(救い)を注(書き記していること)を逸(隠している)。
霊(死者の魂)の理(道理)を展(ひらく)。
質(内容)は、双(二つ)ある。
訣(奥義)を演(押し広める)慮(考え)は毎(隅々)まで魅(惹きつける)。
また、どんなに身分の低い相手であっても、その男はのろまでへたくそながらもひたすらフリーダだけを恋いこがれていて、フリーダと結婚するーおお、いやだわーことを無上の願いとしているのだということを世間に信じてもらえるような相手でなくてはならないのでした。
☆また、どんなに劣った人であっても信ずべき駄作はできます。愚鈍で下品な性質にもかかわらず、正しくフリーダに憧れ、愛すべき天国でフリーダと結婚するなど信じる人は一人もいません。小舟を熱望する人は一人もいないのです。
草冰る伝大友皇子の墓
草冰る…草には耐凍性があり凍らない。極寒の地でも草はあるし、雪は保温になり春になれば勢いづく。タンポポやスミレも然り、霜が降りても日中になれば葉は活性する。
草は冰るが、復活するということかもしれない。たしかに長年不明とされていた墓も、明治政府により弘文天皇とし、墓も祀られている。
草冰る、草は凍らず蘇るという伝は後の世にも語り継がれるのではないか。
草冰るはソウ・ヒヨウと読んで、葬、費用。
伝はデと読んで、出。
大友皇子はタイ・ユウ・コウ・シと読んで、滞、融、孝、施。
墓はボと読んで、模。
☆葬いの費用を出し、滞りを融かした。
孝(死んだ父)の施しを模した(真似をした)。
草冰るはソウ・ヒョウと読んで、総評。
伝はデンと読んで、伝。
大友皇子はダイ・ユウ・コウ・シと読んで、代、優、恒、師。
墓はボと読んで、慕。
☆総評を伝える代(代表)は優(すぐれており)恒(つねに)師を 慕っている。
画面は大きく黒い線の対角線が引かれている。
これは大いなる否定としか思えない。美しくなく心魅かれる観点に欠ける画であり、あたかも見ることを拒否しているようでもある。
つまり、これは主張である。
『本来の意味』という根源的な問いに対する答えである。
本来という言葉さえ、ある意味不明である。(本来)の根拠は辿れば辿るほど人智が育てた観念に行き着き、霧消してしまうのである。
本来という概念は確かに在る、しかし、それは言語、組織、流通、分別といった物理的に説明可能なプロセスに限られ、精神的な領域においての『本来の意味』は曖昧模糊としたイメージにすぎず決定は不可能である。
無限とも思われる宇宙空間の広がりの中で、(本来)を掴みうる根拠を発見するのは困難である。
黒い対角線は後に引かれたものでなく、四つの世界(領域)が漆黒の画面から穴を空けた亀裂(領域)かも知れない。漆黒(無)より進出したものが、天空であり、混沌、人智、言語であり、時間は不確定である。
『本来の意味』は投げ出された『問』であり『答』である。
写真は『マグリット』展・図録より
そして硝子の開き戸がたつて、そこに金文字でかう書いてありました。
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
二人はそこで、ひどくよろこんで言ひました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の詞(言葉)を解(悟る)
個(一人一人)の魂の悶(もだえ苦しむこと)を、治めるのは新しい。
訣(奥義)を演(述べる)慮(かんがえ)は、字で認(見分けると)現れる。