それは、フリーダの知合いの男性であってはなりませんでした。従僕たちのひとりでもいけないのです。従僕などは、たぶんあきれて大きな目玉で彼女をじっと見つめ、そのままどこかへ行ってしまうだけでしょう。
☆フリーダの知合いであってはなりませんでした。働いている人のひとりでもなく、たぶん、彼ならば大きな目で注視し、どこかへ遠くへ行くことでしょう。
紫陽花の毬のかむさる墓と聞く
あのお墓は高貴な方のお墓だと聞いた。紫陽花の花が絢爛と咲いてはいるが、どこか忘れられたような寂しさが漂う。
紫陽花はシ・ヨウ・カと読んで、詞、用、何。
まり(毬)はキュウと読んで、究。
かむさる(神去)はシン・キョと読んで、新、拠。
墓と聞くはボ・モンと読んで、簿、問。
☆詞(言葉)の用(働き)の何かを究(つきつめる)。
新しい拠(より所)の簿(ノート)で問うている。
紫陽花はシ・ヨウ・カと読んで、屍、様、苛。
まり(毬)はキュウと読んで、泣。
かさむる(神去)はシン・キョと読んで、辛、虚。
墓と聞くはボ・ブンと読んで、模、紊。
☆屍(亡骸)の様(ありさま)の苛(むごさ)に泣いている。
辛く虚しい模(ありさま)に紊(心乱れている)。
荒梅雨の尸焼く音憚らず
先ほどまで生きていた人の身体が無機に帰していくという、驚愕すべき畏怖の念。
尸を焼く音は、心的な鼓動と共鳴し更なる轟音と化す。荒梅雨は雷をも孕んでいるかもしれない。客観視した哀しみの凄味がある。
荒梅雨はコウ・バイ・ウと読んで、構、倍、迂。
尸焼く音はシ・ショウ・インと読んで、試、照、韻。
憚らずはタンと読んで、探。
☆構(仕掛け)を倍(同じものを二度にして)迂(遠回り)を試みる。
照(てらし合わせ)韻(音の響き)をさがす。
荒梅雨はコウ・バイ・ウと読んで、恒、媒、有。
尸焼く音はシ・ショウ・インと読んで、詞、衝、隠。
憚らずはタンと読んで、譚。
☆恒(つね)に媒(仲立ち)が有る。
詞(ことば)は衝(重要)である。
陰(隠れた)譚(物語)がある。
本来の意味、もともと、元来・・・意味に本来などということあるだろうか。言葉には起源や成り立ち、衆目の一致する意味・内容があるが、意味そのものは感覚である。
意味不明などという時の意味はその感覚(概念)が伝わらないことであって、(対象/言葉ありき)が前提である。
意味というのは付随の媒体、対象の意図を感じうるための仲介的存在ではないか。
だから、『本来の意味』への困惑を隠せない。
作品は、黒枠と黒く太い対角線がそれぞれを区切っている。分割しているが、単に否定としての✖とも思えるのである。暗緑色のベタ、空を想起させるブルー、人智の原初としての煉瓦、そして白地の中の文字。距離を置いてみると、この白地の部分だけが浮いて見えるに違いない。
文字はCorps de femme(女の身体)、だから何?という感じで意味そのものは不明である。
『本来の意味』とは、意味そのものは存在せず、世界の存在物はただありのままに存在するだけである。ただ、人との関係性から『意味』が生じるにすぎない。意味は多くを孕むが、多くを隠蔽しており、認識がそれ(意味)を浮上させている。
写真は『マグリット』展・図録より
二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんです。
☆字を認(見分ける)と、現れる。
換(入れ替えること)が律である。
現れたものを看(注意して見ること)で迫る。
磊(小さなことにこだわらず)個(一つ一つ)連(つなげて)画く。
粗(大まか)に昵(近づく/慣れ親しみ)、律を把(つかむ)。
ただ、この狡猾な狂言の相手役になってくれる適当な男性を見つけだすことは、なまやさしいことではありませんでした。
☆この狡猾な脚本(作り話)を活動させる能力のある人を見つけるのは困難でした。
金蠅も銀蠅も来よ鬱頭
金蠅も銀蠅も・・・銀も金も何せむにまされる宝子にしかめやも(憶良)を踏まえた句である。
金銀にも勝るという子を始め、蠅のように煩がられ、追われる人たちも、皆いらっしゃい。このわたし(鬱頭)も迷える人ですから。(この世はみんな平等なんですよ)と。
金蠅はキン・ヨウと読んで、襟、要。
銀蠅ハギン・ヨウと読んで、吟、要。
来よはライと読んで、頼。
鬱頭はウチ・トウと読んで、内、問う。
☆襟(心の中)を要(まとめて)吟(詩歌を作る)。
要(かなめ)の頼(たより)は、内(心の中)を問うことである。
襟蠅はキン・ヨウと読んで、近、様。
銀蠅はギン・ヨウと読んで、吟、様。
来よはライと読んで、磊。
鬱頭はウツ・トウと読んで、鬱陶。
☆近(距離が近い、血縁関係が深い)様(ありさま)も、吟(声を出して歌う)様(ありさま)も、磊(小さなことにはこだわらない)が、鬱陶しい。
春嵐足ゆびをみなひらくマリア
無機の素材で作られた偶像のマリアさま。なのによく見ると、足の指が開いている。春嵐に立ち向かう姿はグイと雄々しくまるで意志あるもののようである。
春嵐はシュン・ランと読んで、竣、欄。
足ゆび(足指)はソク・シと読んで、即、試。
みなひらく(皆開)はカイ、カイと読んで、皆、諧。
☆竣(出来上がった)欄(手すり)を即(すぐに)試す。
皆(すべて)諧(整い、調和している)。
春嵐はシュン・ランと読んで、悛、乱。
足ゆび(足指)はソク・シと読んで、則、自。
みなひらく(皆開)はカイ・カイと読んで、改、戒。
☆悛(改める)乱れた則(きまり)。
自らを改めて戒める。
『本来の意味』
意味とは何であったのか。言葉、雰囲気、表情、動作、記号、あるいは作品(絵画、文芸、劇)など、人間的感覚で伝え得る内容…。
意味とは人と人をつなぐツールの中に内在するもので、必ずしも完全ではないが、意味を読み取る力はデータの集積により判断の質は高まると信じられている。
しかし、この画を見て『本来の意味』と提示されても明確には判断がつきかねる。黒い枠の中の黒く太い対角線は、否定を想起させる。これより先への侵入を阻むという態である。
四分の一にある、corps de femme (女の身体)という文字、ある程度意味を想起可能にする。しかし全体のバランスから言えば通じるものを見いだせず、むしろ不明の色が濃い。レンガ(火の使用/叡智)、青(空間)、暗緑色、それぞれ言葉に匹敵する意味を所有する。以上でも以下でもない意味の範囲は主体の所有する眼識に因るものである。
主張するものを的確に把握すべきツールが意味本来の役割である。ただ人間の感性には差異があり、各人のデータの集積は目に見えず、感知の程度は計れない。
『本来の意味』そのものに混沌の深淵が潜んでいるので、本来の定義は不確定である。
写真は『マグリット』展・図録より
「君、ちやうどいゝ。こゝはこれでなかなか開けてるんだ。入らうぢやないか」
「おや、こんなとこにをかしいね。しかしとにかく何か食事ができるんだらう」
「もちろんできるさ。看板にさう書いてあるぢやないか」
はいらうぢやないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れさうなんだ。」
☆訓(教え導き)解(さとす)のは新しい。
化(教え導くこと)の自記は字を換(入れ替えること)で判かる。
化(教え導くこと)は、太陽の平等である。