Ⅲ-3-2〔無題(銅葉ゆりの樹)〕Ⅲ-3-5(栃の木)Ⅲ-3-4(朴葉)
それぞれの葉を重ねて置いてある。葉を生命体とするなら、家族のようなものかもしれない。離れがたく一つのグループを成している。
この葉への感情移入・・・葉は朽ち果て終末を迎え跡形もなく姿を消す。しかし、銅(金属・無機質)に変換した場合、形は世紀を超えて残存するに違いない。
葉(有機質)は終末(死)を必然とするが、金属は不変である。しかし、やがて酸化し腐食・劣化は免れない。時間差である。
この表象は祈りだろうか。条理への反感だろうか。作家は黙して語らないが、生命体の持つ連鎖(DNA)の時空を集約・凝縮した形を金属に質的変換を成して表したのだろうか。作品としては初めて葉を見た幼児の感覚に近い素朴さ唐突さである。あえてそこに意図が有るのだと主張しているのかもしれない。
この作品を見ても一般的な感動には至らない。美的でも機能的でもないからであるが、あえて提示したという作家の意図に疑惑が生じる。
形態の持つ観念的思考、質感の持つ観念との落差、実際に置かれた作品と鑑賞者の観念(集積されたデータ)との距離。これらは一致することなく精神の時空を振動させ、自覚の不確かさを揺らして止まない。
写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館