
全国高校野球大会・夏の甲子園風景
江嵜企画代表・Ken
夏の甲子園も早くも14日目迎えてこの日はベスト4を決める準々決勝戦である。地元東兵庫代表の報徳学園と北大阪代表の大阪桐蔭が出るとあって超満員が予想された。
試合開始1時間前に阪神甲子園駅に着いたが、球場の前は当日キップを買う人で長蛇の列である。「間もなく売り切れます。その節はご容赦ください」と係りのひとがメガホン片手に声を枯らしていた。
こうなれば下手に並ぶとまずい。頼りは無料の外野しかない。球場を半周して入って見渡すと内野外野ほぼ満員である。ガソリン代が上がって今年の夏は「安・近・短」と聞いていたがここまで人が入るとは頭になく見通しの甘さを嘆いても時既に遅しである。
バックネットがほぼ正面に見えるスコアボードを右に見る位置に空席が残っていたのを幸いにいつものようにスケッチをはじめた。
銀傘の上に右からダイエー甲子園店から左へホテルNOVOTEL甲子園、ついで甲子園ホテルの看板が見えた。
母校K高校のグランドがあったところにダイエーが、そして校舎があったところにノボテルが建っている。グランドは春夏と高校野球大会のとき試合前の代表校の練習場だったことが懐かしく思い出される。
冬の体操の時間には甲子園球場を一週半走ったことも今となってはなつかしい。
8月15日は敗戦記念日である。第二次世界大戦では310万人が命を落とした。生前筆者を大変かわいがってくれていたという叔父も満州からビルマ(現ミヤンマー)へ転進、激戦地メークテーラーで戦死した。
正午にサイレンが鳴って起立、戦没者を慰霊して1分間の黙祷を捧げた。
第一試合開始前旧制和歌山県立海草中(現向陽高)の左腕で、1939年の全国中等野球大会で、全5試合完封勝ち、準決勝、決勝で大会初のノーヒットノーランを記録、45年3月、24歳で戦死された嶋誠一さんの表彰式が行われた。
試合の方は、報徳が中盤までは近田投手の打たれながらも粘り強い投球でゲームを作っていたが、連投の疲れが出たのであろう二度のワイルドピッチも禍いして4-7で報徳が大阪桐蔭に敗れた。
いま日本は平和を謳歌している。いまの日本が多くの同胞の尊い犠牲の上に成りたっていることを、大人の責任として、若い世代に語り継いでいかなければならないとの思いを新にして甲子園球場を後にした次第である。(了)