浜脇小学校『雄大碑』アラカルト:山本實氏大いに語る:西宮文化講演会
江嵜企画代表・Ken
「浜脇小学校の校庭の北隅に『雄大碑』と彫られた巨石がある」と、山本實氏の講演が始まった。浜脇小学校はえべっさんで有名な西宮神社から南へ国道43号線をまたいだところにある。「花崗岩の割り石で、高さ2m ・正面幅1m・奥行70cm、徳川大坂城再築の石材として切り出されたときの石で、『調整石』といわれる。」といきなり話は核心に入った。
巨石は明治時代の終わりごろ辰馬本家酒造の精米所「新田蔵」を建造する際,立っていたといわれる。それを掘り起こした。この土地に巨大な石が立っていた。これが「立つ石」「建石」、『建石町』という町名の由来である。
陸軍中将、一戸兵衛が『雄大』と揮毫した。当時西宮第一尋常小学校に寄贈され明治45年に建立された。昭和51年(1976)に浜脇小学校百周年記念に現在の位置に移された。
巨石の故郷は、元和6年(1620)の頃、徳川幕府による大坂城再築の折に、その普請を賦課された大名たちが東六甲山麓から採石した。碑の裏にある刻印から芦屋市城の山麓から切り出された石と特定できる。刻印に長州萩藩、毛利長門秀就とある。同じ刻印の石は大坂城の石垣に多い。
浜脇小学校の「雄大碑」の石は、芦屋の山麓で切り出され、加工され大坂城の普請場に運ばれる途中、たまたま落ちたものと見られる。大坂城まで運ばれなかった石を「残念石」という。甲山周辺には「残念石」が数多く残されていると話は尽きなかった。
大坂城は天正11年(1583)に築城、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で落城した。元和6年(1620)第一期工事が開始、寛永1年(1624)第二期工事、寛永6年(1629)、大坂城の再築が完成した。徳川再築天守は豊臣時代本丸地盤に盛り土され建てられた。慶長以前は「野面積み」、慶長期は「打ち込みはぎ」、寛永以降は「切り込みはぎ」と呼ばれると、講演会で配布された資料にあった。
山本實氏は御年85歳である。「残念石」の話を耳にされると駆けつける。スライドをとり、調査結果を書きのこす。甲山周辺には数多くの「残念石」が、民家の庭石や公園に放置されていると話された。
山本實氏は、これは回清寺の「南天棒」、これは常磐町の「一本松地蔵尊」、越木岩町の「本殿の裏山」ですと、一枚一枚スライドを見せた。講演時間をオーバーしたことに気づかれた。「よろしいか」と山下忠男、西宮文化協会長の声をかけたら「切りのいいところまでお話しください。」と助け舟をもらったあとも話は続いた。
恥ずかしながら浜脇小学校に由緒ある「雄大碑」の存在すら知らなかった。めったに聞けない貴重な山本實氏のお話を聞く機会をいただいた西宮文化協会にひたすら感謝である。
10月22日、午後1時半から西宮神社会館2階で開かれた講演会場の様子をスケッチした。(了)