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東野治之奈良大学名誉教授、文化功労者選定記念フォーラム「法隆寺と聖徳太子」(スケッチ&コメント)

2018-03-26 12:01:11 | スケッチ


文化功労者選定記念フォーラム「法隆寺と聖徳太子」

江嵜企画代表・Ken



東野治之奈良大学名誉教授、文化功労賞選定記念フォーラム「法隆寺と聖徳太子」が、3月25日(日)午後1時半か奈良大学講堂であり楽しみにして出かけた。午前10時半からの難波での猪熊佳子日本画教室の日と重なったが早退、難波発の近鉄奈良行き快速急行に乗車、大和西大寺で京都線に乗り換え「高の原」下車、駅前から臨時バスに乗った。

「高の原」駅で降りるのは初めてだった。満員のバスの窓越しに灌木林、竹林が見えた。語弊を恐れず言えば60年前にさかのぼるが開発前の千里ニュータウンの情景をふと思い出した。幸い開演15分前に会場に着いた。会場はすでにほぼ満席だった。会場の様子をいつものようにスケッチした。惜しむらくは若者の姿をほとんど見かけなかった。

この日の最大のお目当ては東野治之氏の講演を聞くことだった。氏は古代史に関する数々の業績に対して2017年、文化功労者に選ばれた。1946年生まれ、母校甲陽学院46回生である。講演のタイトルは「私の法隆寺研究」だった。会場で配られたレジメ冒頭に、16歳~18歳、1962年頃と付記された「高校時代の読書から」とあり,複数の書物が列挙されていた。少年時代に原点があるという氏の強い思いがレジメひとつにも垣間見えて嬉しかった。

「法隆寺については中学、高校時代から興味を持っていた。」と話した。三宮センター街の古本屋で會津八一『法隆寺法起寺法輪寺建立時代の研究』(1958年)が目に留まり、安いなと思って買った。390円だった。會津八一は短歌を通じて知っていたが、読後、法隆寺にいよいよのめりこんでいいったと話した。

西宮市立図書館で見つけた村田治郎の「法隆寺の研究史」(1949)(毎日新聞社)はいわゆる「再建非再建法隆寺論争」が書かれていた。「いろいろな資資料を基に、様々な議論が展開されいた。夢中になって読んだ。実に面白かった」と東野先生は話を続けた。

「大学は文学部に入った。当時学園紛争の時期だった。授業がなかったのでアルバイトで薬師寺金堂を建てる前の発掘作作業を経験した。法華寺の発掘にも参加した。いずれも貴重な経験だった。1973年、27歳のころだが、奈良文研資料館で銘文実物調査参加である。この時接写撮影を体験できた。」と話した。

78年にその時の研究成果を最初の論文集となる「日本古代の墓誌」にまとめた。たまたま声を掛けられ、1986年に東京国立博物館客員となり、香木や幡の銘文を研究した。香木を通じて古代ペルシャ文字、ソグド文字との出会いがあった。1997年には法隆寺編纂委員を務めた。その時天智9年(670)法隆寺火災が確定した。

「いろいろな人から声をかけられたことで、分野を異にする様々な方々との出会いが生まれた。今ある自分はそのお陰である。研究室だけに閉じこもっていたら今の自分はなかった」と話した言葉が特に印象に残った。

印象に残った言葉として「23年前1995年に阪神淡路大震災を経験した。自宅1階は潰れたが2階は助かり書籍は残ったのは幸いだった。そのときやっとかないとできなくなる。震災を経験して人生何が起こるかわからないと実感、本気で仕事に取り組んだ。地震は自分の人生を変えてくれた」と東野氏は話した。

この日のフオーラムは清水哲郎、奈良大学学長の挨拶から始まった。法隆寺、大野玄妙管長の「聖徳太子の精神と文化」と題する基調講演と東野氏の講演に続き、東野氏、吉川敏子先生、豊島直博先生お三方によるパネルディスカッションが開かれた。今回のフォーラム開催を紹介いただいた甲陽学院46回生の西村公男氏にひたすら感謝である。(了)

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