
赤尾健蔵氏大いに語ㇽ
江嵜企画代表・Ken
赤尾建蔵、竹中大工道具館理事の「大工道具の歴史と工匠の知恵」と題し第114回「酒蔵文化道場」が7月13日(土)神戸酒心館ホールで開かれ、午後4時に始まり6時近くまでの講演を満喫した。ほぼ満席の会場の様子をいつものようにスケッチした。
赤尾氏の話は「わが国は国土面積の70%近くを森林が占めており、古くから木の文化が栄えてきた」ということばから始まった。赤尾氏は「来年開かれる東京オリンピック、パラリンピックの新国立競技場の構造材に木材が多く使われている。日本でもこの先再び木材が構造材に積極的に使われることを期待しています。」と話を結んだ。
「竹中道具館は昭和59年(1984)、竹中工務店創業85周年を記念して作られた。平成16年(2014)に新幹線「新神戸駅」から徒歩数分の場所にリニューアルオープンした。」と語ったあと本社竹中工務店の沿革に話を進めた。
「慶長15年(1610)、信長の元家臣、竹中藤兵衛正高が名古屋で創業。明治32年(1899)、第14代竹中藤右衛門が神戸で創立した。明治42年(1909)本店を神戸に、名古屋を支店とした。大正12年(1923)本店を大阪に移し神戸を支店にして今日に至る。」と紹介した。
「道具館」内の様子をスライドで紹介しながら、道具の変遷を縄文時代、古墳時代、中世、江戸時代、戦前、戦後、そして現代にいたるまで紹介した。
縄文時代に既に道具はあった。三代丸山遺跡に石を磨いて作られた石釜を木に取り付けて木を伐採して建物をつくった。弥生時代に大陸から鉄器が伝えられた。鉄はノミやヤリガンナなどに使われていたことが吉野ケ里遺跡で分かる。2-3世紀には渡来人から伝えられた技術で鉄器を作れるようになっていた。4~5世紀に出来た古墳からは沢山の大工道具が出ている。
やがて木をたたき割る「打割製材」の時代を経て、大のこぎり「大鋸(おが)」が登場する。「おがくず」は文字通り「大鋸(おが)」を挽いた後出てくる「くず」のことだ。
寺社の縁起物絵巻に当時の大工道具が描かれている。大工さんがどのように「大鋸」を挽いたのか当時の大工仕事の様子まで描かれている。「打割製材」時代から鎌倉室町時代にかけて二人がかりで挽く「挽割製材」の時代に入る。日本では16世紀ころから「前挽大鋸」がその後大工道具の主流になった。
江戸時代の道具の話の中から「五意達者」ということばが突然出て来た。「五意達者」とは「棟梁が身につける五つの技法①指尺(設計)、②算合(見積り)、③手仕事(加工)、④絵模様(デザイン)」、⑤彫物のことです。」と話した。
「南向きの山で育った木は年輪の中心や間隔が均等でない。北向きの山で育つとまっすぐ育つ。木の曲がりから構造用か造作用かを決めるのも棟梁の仕事だ。製材された後も木は伸び縮みする。木の性質を熟知し適材を適所に使いこなすのも棟梁の技量です」と赤尾氏は力を込めた。
話は木材建築の粋を集めた五重塔に移り佳境に入る。日本に江戸時代前に建てられ現存している五重塔は22基ある。心柱は堀立式(法隆寺)、礎石式(薬師寺東塔)、懸垂式(日光東照宮)などある。地震で倒れた五重塔はない。四天王寺は伊勢湾台風で倒壊した。落雷で焼失した例はある。
「大工道具館来訪者の一つの特徴では欧米人は泊まりこんで3回も訪れる方が結構おられる。日本の大工道具はとことん技術を極めるところに引かれるようだ。一般的に東南アジアの方はさっと見て帰られる方が多い」と話した。
恥ずかしながら神戸に長年住んでいて竹中大工道具館を訪れたことはなかった。爺バカのみぎり、小1の孫にも見せたい。魅力いっぱいのお話を聞く機会をご用意いただいた神戸酒心館にひたすら感謝である。(了)