西宮文化協会七月行事
江嵜企画代表・Ken
岡本三千代先生、南都明日香ふれあいセンター犬養万葉記念館館長の「令和に寄せて~万葉集に学ぶ」と題しての講演会が、西宮文化協会七月行事として令和元年7月18日(木)午後1時半から開かれ楽しみにして出かけた。約40人の万葉ファンが岡本三千代先生の話を満喫した。会場の様子をいつものようにスケッチした。
藤田卯三郎、西宮文化協会副会長さんが「本日はご婦人方が多く、会場の雰囲気がいつもと変わっております。声を出して万葉集を歌っておられることでもよく知られた方です。私の話はそのへんにして、岡本先生をご紹介します。」と冒頭挨拶された。
「西宮市民になって45年になります。又犬養孝先生の弟子としてもこの度西宮文化協会で講演の機会をいただき感謝します。地元西宮は万葉歌にゆかりの深い地であることもお伝えしたいと思います。」と挨拶された。
「新しい元号が「令和」になったと車の中でラジオを聞いたとき何が典拠なのかわかりませんでした。万葉の専門家のほとんどの方もそうだったのではないかと思います。あとはワイドショーなどでも大変な騒ぎになりました。」
「令和」は万葉集、巻五、梅花歌三十ニ首の序文の一節にある原文「初春令月 気淑風和」、和訳は「初春の令月にして、気淑く風和ぐ」である。その中から「令」と「和」がとられた。
「序文の作者は諸説ある。「蘭亭序」からとったとする説では「王義之は景勝地、会稽山にある蘭亭に客を招き、42名で曲水の宴を開いた。その時の詩集「蘭亭集」の序文として王義之が自ら書いたものを手本とした説。また、後漢の文学者、張衡が書いた「帰田賦」に寄ったとする説がある。」
「万葉集は20の巻物に分けられた和歌(やまとうた)が集められている。読み手は天皇、名もない農民,漁民、防人(さきもり)、采女(うねめ)、様々な立場の人々、男女ともどもの歌が含まれる。7世紀から8世紀の100年から150年にかけて歌われた。その数4,516首。元本は残っておらず写本だけだ。大和言葉を万葉仮名に当てて形として残した。」
「額田王が「あかね指す 柴野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」の歌が好きです。「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやよ」と皇太子が答える。万葉集を代表する歌です。」と岡本先生の言葉に力が入った。
梅花の宴に話を戻す。「藤原氏は権勢をほしいままにしてきた。大伴旅人は太宰府に下る。着いて2け月で妻を亡くす。旅人は元々武人で武骨者だった。その旅人が60歳で歌を始めた。旅人は酒を讃える歌も多い。天平二年(730)正月十三日(太陽暦2月8日)に梅花の宴が盛大に開かれた。序文のあとに32首他に6首が納められた。」
西宮と万葉集に触れたい。巻三の279に高市黒人が読んだ「吾妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ」という歌がある。名次山(なすきやま)は名次神社から弘田神社へかけての丘である。
西宮町誌に「名次山は武庫山麓に横たわれる丘陵で名勝の地だった。今は海から二十余町離れているが当時は海が傍にあり白砂青松の景勝地であった」と書き残している。
恩師犬養孝氏が新天皇となられた皇太子殿下が学習院時代の修学旅行に来られた時、明日香村をご案内されたとのエピソードや新天皇が明日香村を訪問される日も近いのではないかとの話も岡本三千代先生はご披露された。
話は尽きない。素晴らしい機会を用意願った西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)