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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

命の奪われる事件

2007-04-22 09:53:02 | 時事
 
 世間では先週、命の奪われる事件が相次いだ。

 アメリカの大学での銃乱射。どうも強い疎外感があったようだが、殺しちゃあいかん。人種の問題とか、あったのかもしれない。
 長崎市長の射殺。後ろから、それも有無を言わせず発砲するとは。誰かから「よくやった」と誉められただろうか、自分でも「よくやった」と満足だろうか。しかし世間では、こういうのを〈卑怯者〉と呼ぶ。決して男らしい行動とは言わない。(女性ならいい、というわけでもない)
 そして相変わらずというか、イラクでのテロ。ある程度慣れているのかもしれないが、毎日毎日、びくびくしながら生活するってのも、やりきれないだろうと思う。

 亡くなられた方々には気の毒としか言いようがないが、これらの事件のおかげで警備なりセキュリティが厳しくなり、起こるはずだった事件が起きず、そのため失われるはずだった命が失われずに済んだとすれば、それはそれで〈尊い犠牲〉になられたのだと考えたい。(セキュリティでガチガチってのも考えものだが)
 そう考えて行くと、今の僕らってのは、過去の大きな戦争を含め、病気にしろ事故にしろ、たっくさんの犠牲の上に成り立っているのだとも言える。感謝しなくては。

 一方、これはもっと高度な考え方になるが、加害者ってのは、ある意味、世の中を良くするために存在した、という見方もできる。彼らがいたために、世の人々はいろんなことを考え、進歩してきたのだ、とも。悲しいことには違いないが、せめて前向きに考えたい。
 「いわんや悪人をや」だったか「誰も彼女を打てない」だったか、仏教でもキリスト教でも、似たような思想があったかと思う。普通じゃなかなかたどり着けない考え方だけれど。
 とは言っても彼らは今後、大いなる反省をして、また来世からやり直してもらわないといけないのだが。

 ・・・ちょっとシリアスになってしまいました。

〔全然関係ないけど、きょう平原綾香のコンサートに行く予定です。品がいいと言うのか、あの子には何か高い精神性が感じられます。〕


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