フジテレビのドラマ『カラマーゾフの兄弟』が佳境に入った。原作読んでいないため真犯人が誰なのか、最後どうなるのかよく分からない分、ワクワクしながら見ている。(使用人の末松がどうも怪しいと感じていたが、そうだったのか…)
不良っぽい長男・満にも一途な面はあるし、真面目な弁護士の次男・勲にも野心が潜んでいる。そして超純粋な医学生の三男・涼にも、何かしら裏はあるのかもしれない。(一説によれば、書かれるはずだった第2部では、三男アリョーシャがテロリストになっていた、らしい。純粋であればあるほど、極端に走りやすいのかもしれない)
もちろん『カラマーゾフ』は、そんな単純な話でもない。
職場と家庭との顔が違うのはもちろん、長年知っている人にも意外な面が見られたり、特殊な場面では違う一面を見せたりと、人間ていうのは一筋縄では行かないというか、二面性/多面性を持っているもの。
あなただってそうだろうし、僕だってそう。一生懸命仕事する時もあれば、エッチなことばかり考えていることもある。このブログだって、前回みたいにしんみりした感じになる場合もあるし、小難しく考察することもあるし、「ナンセンス スタヂアム」みたいに何ともバカバカしいこと書く場合だってある。
何が正しいわけでもなく、これが人間、だろうと思う。
…てなことをずっと考えていたら、作家の平野啓一郎氏がこんなことを新聞に書いていた。「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて『本当の自分』である。複数の「分人」が「個人」を構成している」。やはり。
同様に、誰しも変な所はあるもの。堅苦し過ぎるってのも変だろうし、しゃべり過ぎも変なのだと言える。
これまた一説によれば、成人の約1割が発達障害なのだという。かのビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも、たしかトム・クルーズもそうらしい。おそらくそれ以外でも、極端に正義感強いのとか異常に女好きなんてのも、広い意味で行くと〈障害〉と言えるのかもしれない。仮にそういう人たちを除外してみても、残った人たちの中で〈変な人間〉というのはやはり出てくるのだろう。
だから、何が正しいというわけではなく、人は誰しも生きてていいはず。
〔写真は、米国の5セント硬貨の裏表〕