思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

批評するのではなく、能動的に問題に取り組もう!(信条?)

2005-02-06 | 私の信条

「論理的な正しさ」それ自体を執拗に追い求め、世の書物の一つ一つを「正しさ」を基準に評定し、「正しさ競争」に邁進する。一生をそれで終える? そんな人生は、イヤですね。

優れた認識のための努力は大切です。透明な意識を得るための方法を探り、日々それを実践することは、欠かせません。澄んだ意識、シャープな分析、囚われのない認識を得ることには大きなエロースがあります。

しかし、それは、あくまで前提にすぎません。観想に終わったらアウトです。生の意欲は消えてしまいます。肝心なのは、何をするか?です。具体的な建築・創造へと向かうことです。

受動的な生に留まれば、だんだん元気がなくなり、エネルギーは枯渇していきます。他者の生き血を吸って生きる!人間になってしまいます。

私は、子育て・教育に取り組む、教育問題に取り組む、市政問題に取り組む、政治の改善の方策を考えることに取り組む、音づくりに取り組む、写真を撮ることに取り組む、建築に取り組む、新たな考えを生み出すことに取り組む・・・・さまざまなことに直接取り組みます。人に何を言われようと、人は人なのですから、自分が取り組みたいと思うことに逡巡なく、取り組みます。真っ直ぐに、愚直に、バカに徹して。

能動的、現実的に取り組むわけです。
批評家的に「問題を問題にする」のではありません。

教育の問題を問題にする、政治の問題を問題にする、というのは、批評を職業にしている人には意味のあることですが、主体的に生きている人―能動的・現実的に生きている人には、無意味な話です。

原理的な次元の問題ならば、「問題を問題にする」というこの二次的な態度―立場は成立しますが、現実問題への取り組みとしては、「問題を問題にする」という立場は成立しません。原理の次元を超えて、現実次元の話しまでも「批評家的な態度―見方」で物事を考え、取り組めば、真に意味あるものとしては取り組まないという取り組み、にしかなりません。

生業をもって現実的に生きている人間が、批評家のように二次的立場で現実問題を論じるような態度をもてば、まさに百害あって一利なしです。

主体的に生きることで、始めて真のエロースは降り来たるのです。
観想から能動へ、批評から行動へ、それが生きる!ことです。 共に!!

武田康弘





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