思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

真剣な思想の交換ー山脇・武田 メール公開・第五弾

2005-02-09 | メール・往復書簡

「公共哲学とは何か」(ちくま新書)の著者―山脇直司さんと私のメール公開、第五弾です。 (山脇さんは、現在、公共哲学ネットワークで活躍。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻教授。)

思想のやりとりが踏み込んだものになってきました。

現代の思想状況を肥やしに新しい土壌をつくり、そこからよき果実を実らせることができるか?まだ何とも言えませんが、努力を続けます。課題は大きいほど面白い!

山脇さんと私は、「書評」が縁で知り合い、面識はありません。
互いに真剣な「緊迫感のある言葉」をリアルタイムで公開します。



From: 白樺教育館ー武田康弘
To: yamawaki
Sent: Saturday, February 05, 2005 11:30 AM
Subject: 本

『公共哲学京都フォーラム・談論シリーズ1・二十一世紀の日本の教育課程』
拝受しました。

よい試みだと思います。
公共教育の新しい考え方が、議論の中から浮かび出るような編集です。

ただ、結論には基本的に賛同しますが、何か踏み込みが弱いな、とも感じます。

比喩的に言えば、この本に限らず、「公共哲学」が、「正法眼蔵」の道元とダブルのです。他力念仏の親鸞との違い、を感じます。
道元が親鸞に包み込まれるなら、真の普遍性ー広大な無限の領野が開けるのでは?と思いました。

そのためには、
思考する人たち自身の実存の問題ー自分はなぜ受験勉強をして有名大学に入ったのか? どんな実存的欲求がこういう研究に向かわせているのか? その己の思考と立場にどれだけの正当性があるのか?・・・・という根源的な問いに答えることだと思います。

けだし、哲学とは、学際的学問のことではなく、人生の意味と価値の探求だと思うからです。深く己自身の問題から出発することが、普遍性獲得への条件だ、というのが私の立場です。

ともあれ、お互いよき志を活かし、ふつうの多くの人々の深い納得をうるような「公共の哲学」のために、力を合わせて頑張っていければ、と思っています。

贈呈本、どうもありがとうございました。

武田康弘。
山脇直司様。




From: yamawaki
To: 白樺教育館ー武田康弘
Sent: Sunday, February 06, 2005 3:01 AM
Subject: Re: 本

武田康弘様
早速のお返事ありがとうございます。

公共教育の新しい考え方が、議論の中から浮かび出るような編集です。ただ、結論には基本的に賛同しますが、何か踏み込みが弱いな、とも感じます。

・そのとおりです。これはまだ市販以前の段階のものなので、出版する時は、再編集したいと思っています。

比喩的に言えば、この本に限らず、「公共哲学」が、「正法眼蔵」の道元とダブルのです。他力念仏の親鸞との違い、を感じます。道元が親鸞に包み込まれるなら、真の普遍性ー広大な無限の領野が開けるのでは?と思いました。

・うーーん。親鸞が道元を包み込むというようなことは、思いもつきませんでした。アウグスチヌスがトマス・アクィナスを包み込むようなものでしょうか。となると、恩恵論が自由意志論や存在=善論を止揚するということなのでしょうね。その考えには魅力を感じます。

そのためには、思考する人たち自身の実存の問題ー自分はなぜ受験勉強をして有名大学に入ったのか? どんな実存的欲求がこういう研究に向かわせているのか? その己の思考と立場にどれだけの正当性があるのか?・・・・という根源的な問いに答えることだと思います。

・この根源的な問いが成り立たないところに、今の日本社会の大いなる病があると思います。深刻ですね。

けだし、哲学とは、学際的学問のことではなく、人生の意味と価値の探求だと思うからです。深く己自身の問題から出発することが、普遍性獲得への条件だ、というのが私の立場です。

・実存主義の影響大の武田さんらしいお考えで、共鳴します。ただ、公共哲学を遂行したい私としては、それと同時に、制度論や政策論も「哲学として」考えたい。その意味で、少しヘーゲル的な立場を採りたいと思います。

ともあれ、お互いよき志を活かし、ふつうの多くの人々の深い納得をうるような「公共の哲学」のために、力を合わせて頑張っていければ、と思っています。

・はい。それで、私の友人のひとりにスペイン人のマシア神父がいます。彼は「大乗起信論」や和辻の「風土論」をスペイン語訳し、ウナムノやリクールに傾倒しているリベラルな天才肌の哲学者ですが、その彼が昨年3月のマドリッドでのテロ事件と政権交代に関して私宛に送ったメールが、あちこちのインターネットに掲載されて大きな反響を呼びました。生と死、宗教、公共哲学を考えるための感動的な内容なので、改めて添付致します。

山脇直司

〔マシア神父のメールは、長いので、別枠でご紹介します。ー武田〕




from:白樺教育館ー武田康弘
To: yamawaki
Sent: Sunday, February 06, 2005 1:42 PM
Subject: Re: 再返信です。


山脇様。
返信、ありがとうございます。

竹田青嗣さんが「群像」の2003年8月号と、2004年8月号の二回で書いた「ヘーゲル」論(かなりの分量)は、優れたヘーゲル読解だと直感しました。
専門の山脇さんはどう感じますでしょうか?お時間のある時にでも見て下さい。

竹田「ヘーゲル論」の二回目の結論部分を、書き写してみます。

『「自由」の自覚は、まず「享受」へのエロスとして芽生え、次に、「関係」の中での自己配慮および存在配慮のエロスとして展開してゆく。・・この進展は本質的な必然性を持っている。

ヘーゲルが近代社会からつかみだした最大の思想は、それが「自由の相互承認」という根本原理を持ち、それ以外の原理においては進展しえない、ということにあった。マルクスの最大の思想は、この原理が社会における人間関係の「正当性」に帰結しないならば、帰結するように原理を鍛えなおし、それによって社会の構造を変革しなければならない、ということである。

近代は、「自由」な人間的精神の国に向けてひとたび始発点を持ったが、それはまだその長い道程の途上にある。われわれがこの社会を人間的創造の活動の多様な相互承認ゲームへと推し進めていくことができれば、人間の「精神」は、いっそうその豊かな本質を発現するにちがいない。』


《もっと、もっと、大胆、自由に広がる想念(真に現実的な想念は、実現するまでは「異常」に映るもの)、従来の哲学の概念を超えた哲学が必要だ、と言うのが私の考えですが。ヘーゲルも単なる一通過点にすぎない》


只一人、という地点に徹底した親鸞が開いた(開いてしまった)他力の宇宙は、学識という小さな世界とは無関係に、万人にとって魅力的な世界です。実は、どんなに誠実で、広く深い「自力」も、「他力ー内ー自力」であることを了解すれば、具体的にして普遍的な世界、知もその一部として包み込む情感豊かなエロースの世界が開けるのでは、と思っています。

 
では、また。失礼します。 武田。




From: yamawaki
To:白樺教育館ー武田康弘
Sent: Sunday, February 06, 2005 6:43 PM
Subject: Re: 再返信です。


武田康弘様
お忙しい中、お返事ありがとうございます。

Blog「思索の日記」はちょくちょく覗いており、私もコミット無き批評に陥らないよう自戒していきたいと思います。

それで、竹田青嗣さんの本はほとんど読んだことがないのですが、下記の解釈は「私以上にヘーゲルに好意的な」優れたものだと思います。このような「人間ー社会」観の実現のためのは、武田さんが強調される哲学的エロースとロゴスの教育を教育現場に導入するしかないでしょうが、それが一体どのような戦略の基で行われたらよいか、ご示唆頂ければ幸いです。

というのも、私、昨年11月パリのユネスコ本部で開かれた哲学デーに参加したとき、高校レベルでの哲学オリンピックをしたらどうかという提案がなされたのですが、それを実施したら日本は惨敗するだろうなという思いを強くしているからです。

かつてサルトルらが講演したことのあるユネスコは、今年で60周年を迎え、現代のグローバルな危機に対処すべく、「批判的思索力」を「国際公共政策」に反映できるような哲学教育(これはまさに公共哲学のアジェンダですが)の推進を世界各国に呼びかけています。

それでユネスコ活動に積極的ににコミットし始めた私は、これを真剣に考えていかなければなりません。これからもこの点で、武田さんの思索から多くを学ばせてもらいたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

山脇直司


第一、第二弾は、1月13日のブログ
第三弾は、1月15日の二本目のブログ
第四弾は、1月24日のブログ





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