「選ぶ」とは、「惹きつけられた」という受動性を、能動性へと転化させる営みです。
あるもの(ひと)に惹かれるというのは、理屈ではありません。論理の力ではなく、直観の力によるのです。それゆえに、惹きつけられたもの(ひと)は、人間存在のありようを明かします。
ひるがえって、その己の直観を反省してみると、自分が何者であるかが見えてきます。あるもの(ひと)が、なぜ? どのように?自分を惹きつけたのかを知ることは、自己存在の了解なのです。
その惹きつけられたもの(ひと)を、「選ぶ」ことは、能動性への転換であり、責任の発生です。選ぶことは、その人の存在のありようが、受動性を超え、能動的な責任を伴って開示される出来事です。
惹きつけられるという受動性に固執した人間存在論は、ハイデガーに見るように、現状追随の人生(ナチ協力者)を招いてしまいます。彼に限らず、本質的に受動的でしかない大学の講壇「哲学」学者たちが、哲学にもたらした損害は、計り知れないもです。
惹きつけられたもの(ひと)の記述に留まらず、なぜ選んだのか?どのようにして選んだのか?という選びの記述にまで進むことが、能動的存在論とでも呼ぶべき新たな核心的な哲学の領域を開拓することになる、と私は考えています。
選びの記述―意識化は、己の存在の充実をもたらし、人格の統合をつくり出すゆえに、何よりも重要な人生の営みであるはずです。誰にでもできる、しかも、最も正当な哲学の営為、それが選びの記述=能動的存在論だというのが、私(武田)の哲学です。
受動性の哲学に終止符を打たなければ、哲学に未来はありません。
2005.2.14 武田康弘