思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

トラックバック批判ー他者の意見と自分の意見の区別をつけること

2005-02-07 | その他
[関連したBlog]

bondollさん、
あなたが、自民党の人が好きで、 私は、『自民党という巨大組織に群れ集まる人は、本質的に「ずるく」「いやらしい」人が多いな、』と感じていても、それは、それです。別にどうということはありませんが、

デタラメなことを言うのは謹んで下さい。

「日本でなにが良いかといえば、それはもう、宗教が無いこと。
信長はずいぶん派手好きで粗野なので、好みではないんだけど、彼のいいところは、徹底的に宗教兵士を退治したことかな。 
あのおかげで、ずいぶんと日本の宗教の発展は阻止されて、めでたしめでたし^^。 死んだ坊さんはお気の毒だけど兵隊だしね^^」


織田信長のおこなった大量殺戮の歴史を知らないとは驚き!ですね。
「根絶やし」といって、女性、赤ん坊も含めて、浄土真宗の村(自治区)全員を殺戮した、常軌を逸した残虐行為を、「宗教兵士を退治した」、とは何とも驚くべき暴言!です。宗教がない、というのも嘘ですが、今は触れないでおきます。

「宗教も政治も余興の一種としているのでとても落ち着いた国になっているw
政治や宗教に熱い国であるほど、ここ35年間で他国の人間を殺した数が多いしね. そんなものに熱心になるのが利に適わないのは、とてもよくわかる^^」


ここ35年、と限っているところがずいぶんと、戦略的ですね。
日本が、天皇制国家を確立した1890年代(明治20年代)以降の戦争―大量殺戮の歴史、殺戮者の人数は、どの宗教国家よりも多い(15年戦争だけで、2500万人以上)という厳しく悲しい歴史―その原因は、どこにあると考えているのですか?

もし、それが、「天皇教」という明治政府(山県有朋)がつくった擬似一神教にある(私の見解)とするならば、戦争責任や天皇制の問題をなし崩し的に回避し、国体思想の清算も行わず、今また民族の誇りを謳うという自民党の思想と行為には、当然、ノーということになるはずです。

民主制社会は、ふつうの多くの人々の関心と参加によって維持されるのです。批判、とりわけ長く政権を担っている政党に対する厳しい眼が失われれば、その社会には、さまざまな癒着が蔓延し、止水が腐るように活力を失っていきます。これは原理ですよ。

「社会は個人の集合ではあるけども、社会が出来てからは、そんな理屈は通用しない.今はもう社会がなくては個人は生きてゆけないようになってるし、それを求めたのも個人.」

そうであるなら、個人がその社会のありように対して責任を負う、ということになるはずですが、あなたの結論は、何ともひねれたニヒリスティツクなものになっています。「冗談」で書いているのですか?

「宗教やScreaming政治活動や、自由、尊厳なんかの空想ものは、SFでは「スペースオペラ」というジャンルになる^^
スペースオペラはね、子供向きです
大人になりましょう^^」


これが結論ですか? そうだとすると、「大人になるのは、よしましょう!」ということになりますね。

growing-young―若々しく年をとることー、これが私の信条です。よき子ども性を失わずに、大人になることですが、この場合の大人とは、「自分はこの社会の受動的な一人の人間だというのではなく、この社会をつくっている市民=公民=社会人だという自覚をもっている人」という意味です。

問題から逃げる人、「いやらしい人」、ソフィスティケートされた「ずるい人」になることではありませんよ。念のため。

私の思想・見解・感想・感じ方に対する疑問や批判は歓迎しますが、事のついでに揶揄したり、論点をずらして別の話にすり替え、それをトラックバックに書くという「騙し」の手法を使うことは、基本のルールに反する行為です。

大人なら、自他の区別くらいはつけて下さい。「えげつない」行為はやめましょう!

2005.2.7 武田康弘


 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする