思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ほんとうに頭の悪い文部官僚と大臣 「民知―恋知」とは?

2005-08-31 | 恋知(哲学)

ゆとり教育。学力低下。ゆとり見直し。
毎度毎度の本質思考力のないドタバタ劇、その場その場で右往左往、このくらい「愚か」だと笑えていいですね? いや笑ってはいられません。教育(広義のですが)とは人間の最も価値ある営みなのですから。
教育の本質とは何か?何も分からない文部科学省の役人と大臣は、東京大学出身者です。
私の言う「東大病」とは、もちろん東大一校の欠陥を指すのではなく、「受験知」という歪んだ知を象徴する言葉ですが、彼らの「本質的思考力」のなさは、そのとてもいい見本です。
もし、文部科学省の関係者がこのブログを見ていて異論・反論がある場合は、ご遠慮なくお申し出下さい。わたしは、いつでもどこででも「対話」・「「議論」に応じます。


以下に「民知」-「恋知」とは? (「柏市民新聞」からの依頼原稿)を載せます。
9月19日に白樺教育館ホームにアップしました。活字が大きく、写真入りですので、見やすいです。クリックすれば、そちらに飛びます。 

 資格のための知、テストゲームの知、公理・公式に当てはめる紋切り型の知、概念だけの知、・・・では「知」は、その意味と価値を大きく減じてしまいます。「パターン」にしか過ぎない知は、人間の幸福をつくりません。型はまりのマシーンのような存在ではなく、豊かな情感に基づく悦びの人生は、意味に満ちた知、深い納得、腑に落ちる知に支えられて始めて可能になるはずです。

 「白樺」の思想家、柳宗悦と作陶家の濱田庄司、河井寛次郎は、「美」の世界を生活の「用」に耐える豊かな美しさを持つものとするために、1925年から「民芸運動」を始めましたが、「民知」という私の「造語」は、この「民芸」という言葉(概念)を一般化し普遍化したものです。腑に落ちる知―皆にとって真に有用な生きた知のことを指しますが、それは、日本では西周(にしあまね)により無粋な訳が与えられてしまった『哲学』 =philein(恋する)+sophia(知)=したがって本来は『恋知』と訳されるべき言葉(概念)と重なる「知」のことです。一神教であるキリスト教誕生後の「ヨーロッパ哲学」ではなく、それ以前のギリシャのソクラテスが提起した『恋知』と近親性をもつ言葉です。

 私は『白樺教育館』で小学1年生から大学生までの勉強を見ていますが、みな最初は、「広がる心と考える頭」が驚くほど貧困です。いわゆる「優秀」な学生ほど知のパッチワークを得意とし、日々の経験―五感全体での確かめをもとに「自分の頭で考える力」がありません。意味としてつかむのではなく、事実の羅列とパターン認識しかなく、観察眼と思索力がないのです。「学力低下」などという次元の話ではありません。「知」がひどく歪んでいる「大問題」なのです。

 知の教育は、広い意味での本来の「哲学」を土台にしなければ成り立ちません。単なる技術的な知の訓練では、人間としての生は支えられないのです。発展途上の社会では、窮迫した生活の問題に隠されて「生きる意味」への問いが後景に退きますが、市民社会が成熟してくれば、広義の哲学=「民知」なしには「知」は意味を失います。早急に「民知」=「意味の探求による納得の知」の実践に取り組まないと、生きる悦びが得られずに、ほんとうに日本は沈没してしまうでしょう。

2005.8.24 武田康弘 (白樺教育館館長・白樺文学館初代館長)



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