「東大教」とか「東大病」というのは、「受験知」を基準とする『序列意識』と官僚制度を支える東大法学部を中心とする『エリート意識』を指す言葉です。
東京大学が他の大学よりも劣るとか悪いという意味ではありません。
受験知だけを追い求める日本の教育を支える思想―想念、私はそれを「東大病」と呼んでいるのです。東大生や東大教授が必ずしも「東大病」という訳ではありません。「東大に行けなかった人」により重症の東大病患者がいます。
(実際には、例えば、戦前も東大教授の自由主義者、牧野栄一・美濃部達吉・末弘厳(いず)太郎らは、時の天皇制国家主義の権力者と対峙したのです。そのため鳩山一郎文部大臣や政友会の代議士たちによって東大を追放されました。1933年、慶応大学の右翼思想の教授―蓑他胸喜(みのたきょうき)が彼らを「赤化教授」として訴えたのがきっかけでした。)
受験知に基づく序列意識が「病気」を生むのです。
「意味論」や「本質学」が後景に押しやられていること=「事実学」でしかない知のありようが「大問題」なのです。
「公共哲学とは何か」(ちくま新書)に著者で、東大大学院教授の山脇直司さんとのメール交換をご参照下さい。(クリック) 山脇さんと私は、実存の問題を基底にすえて「公共哲学」を考え、進めて行こうと考えている同志です。
「象徴が支配する」もぜひご覧下さい(クリック)
9月2日 武田康弘