思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「目的因」は、ほんらいの哲学=民知・恋知の息の根を止める。 (付・山脇さんコメント)

2005-09-20 | 恋知(哲学)

大多数の人にとって、「ヨーロッパ哲学の歴史」、それも、キリスト教をバックボーンとする「近代の西ヨーロッパ」が、自分たちのために整理し、価値付けた思想の歴史など現実生活には何の関係もないでしょう。

ただし、キリスト教とはほとんど縁のないわが日本も、明治維新以降、その文化を輸入し学問と学制をつくった以上は、その思想の遇し方を知らなくては「混乱」を招くことになります。

あらゆる権威、世俗社会での序列とはまったく無関係に、自分の頭で考え、生きた対話による思索を宣揚したソクラテスの「恋知」(哲学)は、当然キリスト教とは無関係です。出自は、古代インドと共通です。この思想は、世界のふつうの多くの人々にとって大きな利益をもたらす、と私は考えています。

ところが、現代に至る「学」の起源とされるアリストテレスは、哲学は、「事物の変化の究極の原因」を知るための学だと考え、存在の原因として「目的因」(雨が降るのは植物の成長に必要だからだ)を導入しました。神=事物の存在の究極の目的を認識することで最高の幸福が得られるという思想は、その後、キリスト教会の「神学」に援用されたのです。

わたしは、この「目的因」という思想は、内在的にものごとを考えていく道を閉ざし、ソクラテスの「恋知」(哲学)の息の根を止めてしまう考えだと思っています。「目的因」という発想は、現代でもいろいろな形に変奏されて生き残っていますが、この発想は、必ず「客観」や「絶対」を求める思想を生んで、生きた心、しなやかで自由な精神を殺してしまいます。

わたしが提唱する「民知」を広げるためには、こうした絶対的なものを求める思想的ヒステリーを生む「発想」を元から断たなければいけません。主観を掘り進めていくことで普遍的な了解をつくる本来の恋知(哲学)=「主観性の学」を「客観学」へと変貌させてしまわないようにくれぐれも注意しなければならないと思います。油断するとすぐに転落してしまいますので。

(注・アリストテレスの学問には価値がない、という意味ではありません。念のため)

☆「民知宣言」 (8400字) クリック縮小版は、(1000字) クリック

9月19日 もう20日 武田康弘


以下に山脇さん(東大大学院教授)のコメントと私の返信コメントをコピーします。

[山脇直司(本名)] [2005/09/21 00:11]

武田さん
いつもいつも、情熱的な見解を拝見しております。
それで、アリストテレスの「目的因」に関してですが、私は少し違う見方をしています。すなわち目的因を、作用因のような説明原理としてではなく、「存在の自然なあり方を問い了解する思考様式」として理解しています。人は「何のため」に生きるか、それは「幸福に至るため」というようにーー。この見方でいくと、ガリレイVSアリストテレスという見方も可能です。この点に関しては、私たちが20年近くも前に訳した私のミュンヘン大学時代の恩師シュペーマン他『進化論の基盤を問う:目的論の基盤と復権』(東海大学出版会)が参考になるでしょう。また、フォン・ウリクトの『説明と了解』(産業図書、ただし品切れ)は、ガリレイ的な伝統とアリストテレス的な伝統を対比した名著です。
以上、私なりの見方をコメントしました。
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タケセン] [2005/09/21 01:29] [ MyDoblog ]

山脇直司さん、コメント感謝です。
「何のため」に生きるか、については、「私は何のために存在しているのか?」と問うことは背理なのですーという2004年11月19日の2本目のブログに私の見解があります。
本題ですが、私がここで言いたいのは、キリスト教哲学=神学が用いた(援用した)アリストテレス思想の意味です。文脈からもお分かりでしょうが、アリストテレス研究が主題ではありません。
ただし、ここで山脇さんが示された見解と研究成果の書籍は、アリストテレスその人の思想を学ぶ上では、おおきな価値をもつものと思います。
ご教示、ありがとうございます。
武田康弘



コメント
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