思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民知ー恋知と公共哲学ー第3回完結(公共哲学と民知.民知の実践)

2005-09-29 | 恋知(哲学)

「民知ー恋知と公共哲学」の3回目ーこれで完結です。

?・民知と公共哲学

現在、東大出版会から出ているシリーズ「公共哲学」(全15巻)や公共哲学叢書1~8巻等の「公共哲学」関連の書の内容に触れることは、この紙面では無理ですし、また私の話の文脈からも外れてしまうので、ここでは、「公共哲学」の思想の原理とスタイルについて思うところを書いてみます。

公共性とは、「開かれている」ことでしょう。陰で誰かが牛耳る、組織が裏で決定する、という従来の日本社会の閉じた陰湿さとは対照的な、個人の輝き・悦びを生む、開かれた明るさー公明正大の精神を指す概念だと思います。

一例ですが、私と山脇直司さん(ちくま新書「公共哲学とは何か」の著者で、東大大学院教授)は、かなり踏み込んだ思想的なやり取りを私のブログ「思索の日記」で公開しています。お互い実名で遠慮なく意見を交わしていますが、生き生きとした対話の公開は、真の公共性をつくり出すには必須の営みではないでしょうか。スタイルを変更しなければ内容も変わらないのです。

そもそも哲学(恋知)とは「主観性」につくことであり、「客観学」ではありません。対話=問答によって主観性を深めていくことで普遍的な共通了解をつくりだそうとする営みです。哲学(恋知)の核心は、生きた話ことばによる問答であり、書き言葉はその陰に過ぎないのですが、その発祥の意味を忘却すれば、ただの理論―理屈に陥ってしまいます。どのような言説であれ、私というひとりの人間が思い、考え、主張しているのであり、そこからしか普遍的な共通了解はつくれないのです。これは原理です。世俗的な権威や宗教的な絶対が人の心を支配すれば、哲学(恋知)は死んでしまいます。

繰り返しになりますが、個人の思い・関心・欲望に根ざしている人間と社会についての知は、自然科学という客観学とは根本的に異なります。例えて言えば、その知は、音楽や彫刻や絵画などを「知る」ということに近いのです。幾度も反復して聴く、触れる、眺める、いろいろな角度から、いろいろな心模様で、よく感じ知るという知り方以外には知る(了解する)ことができません。音をグラフ化し、絵の具を化学分析し、芸術史を学んでも、それは知識を得たー知解したにすぎず、その作品を知った(了解した)ことにはならないでしょう。それと同じです。自分の生き方を考え、どのような社会がよいかを思案するためには、民知(恋知)という全体知による以外はありません。生活世界の中で、全体知の働きを強めるための工夫―努力が何より大切!です。

もちろん、誠実な学的営為=「公共哲学」が現在まで進めてきた、法学、政治学、経済学などの個別の学問を学際的なものに広げていく営みはおおいに評価できますし、民主制を広げる新しい概念の創造もとてもよいと思います。専門知が果たすべき、本来の役割を自覚し、民知(恋知)という全体知を強めるためのサービスを提供していることは、当然とはいえ、素晴らしいことです。

この学際的な公共知は、専門知のありようを変えていくと思います。しかし、このよき公共性をもった「公共知」を真に「哲学」(恋知)の名に値するものとして鍛えていくためには、現象学という認識論を意識することが必須です。

少し前まで、社会理論―哲学として歴史上最も大きな力をもったマルクス思想が「主義」として教条化してしまった深因は、認識主体と価値問題の意識化に失敗したところにある、と私は見ています。
哲学(恋知)の基盤である認識論は、原理上「観念」を先立たせなければ成立しません。したがって「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できづにいたために、政治・経済・法などの多分野にわたる社会思想が「理論」として固定化して「客観学」に陥ってしまったのでしょう。そのために、主観性から普遍的な了解をつくりだしていく営み=哲学(恋知)にはなれなかったのですが、国家主義を批判し、シチズンシップに基づく市民社会を目がける「公共哲学」は、マルクス思想の致命的な欠陥をよく自覚すべきだと思います。

関連するので、ついでにもう一つ。巨視的な話になりますが、学知や理論が偉いという想念の始まりは、哲学(恋知)の神学化にあります。アリストテレスが物事の説明に「目的因」(雨が降るのは、植物の成長に必要だからだ)を導入したことは、「物語」としての理論を先行させる「説明の体系」をつくりだし、思考を逆立ちさせる元凶になりましたが、この知をキリスト教会が援用したのです。哲学(恋知)が神学の下に置かれ、スコラ(=学校)哲学にされてしまったわけですが、「部分の知の総和―体系」に「恋知という全体知」が従わされるという不幸から、現代もまだほんとうには抜け出せていません。世界的に見ても人間の思考は大きく歪んだままのようです。専門知という客観学による支配-生活者の生む全体知(民知-恋知)が専門知に従属させられるという逆転が続いています。

核心となるのは、心の世界のみならず、私たちの目の前に広がる世界は、人間にとっての「意味としての世界」であり、単なる事実とか、物自体=客観そのものを措定するのは無意味だということです。「学知」が客観や真理だ、と信じる愚かな妄想から解放されないと、理論があって人間が存在しているかのような逆立ちをいつまでも正すことができません。

結語です。
「知」の問題の核心は、西洋哲学史を踏まえた言葉では、現象学という認識論をバックボーンとしてもつことと言えますが、もっと一般化して、経験的な次元に引き上げて言えば、全体知としての知である「民知」(恋知)を〈地〉とし、部分知としての専門知(学知)を〈図〉とする意識です。専門知の存在価値は、民知(恋知)を深め強める事に役立つところにのみあるわけです。学知を含むあらゆる知の出発点は、生活世界の知=民知であり、その目的は、民知という全体知の豊饒化にあることを自覚したとき、学知は初めて「意義の花」を咲かせることができる、というわけです。生活世界の問題を解決し、人間的な悦びを生み出すことが「知」の本来の役目なのですから。民知とは、「偉い」のではなく、面白く有益な全体知なのです。

?・民知の実践

私が主宰する『白樺教育館』(小学1年生から大学生までの学習=授業、成人者向けの講座、行事、研究会等を行っています)には、「腑に落ちる知―全身でつかむ知の実践」を結語とした標語―「民知―恋知の実践」が貼ってありますが、民知とは、ほんとうの知を目がける運動の理念です。それは、民主主義と同じで、内容が予め決まっているのではなく、土台や枠組みの提示です。人間の生の中身―内容を豊かにするための知の実践運動であり、実体ではなく、動詞としての名なのです。個々の教科の学習に取り組んでいるときも、専門知に取り組んでいるときも、そこに自閉するのではなく、生活世界の体験=直観に照らし合わせながら全体の意味を志向することーその方法を身につけることです。
それは、実は、人間や社会問題を考え・知ることに留まらず、数学や自然科学を含むあらゆる分野の学習の基本となる態度だと思います。そのように知を遇すること、それが私の29年間にわたる教育実践の基本理念です。民知の内容を日々豊かにしつつ、その運動を大きく広げて行きたいと考えています。ぜひご参加を!(了)

武田康弘。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする