思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民知ー恋知と公共哲学 第2回(部分知と全体知.民知の方法)

2005-09-28 | 恋知(哲学)

☆昨日のつづき・『民知ー恋知公共哲学』の2回目です(明日で完結)。

?・部分知(専門知)と全体知(生活知)

私たちは誰でも、ある人がどんな人であるかを知るのは、「専門知」によって?ではありません。学知で了解し、判断を下すことは不可能です。特定の分野の知見ではなく、生活世界の経験が生み出す「知」、私が「民知」と呼ぶ全体知によって了解するのです。よき社会のありようを考え、社会問題を解決するのも実はこれと同じです。政治学や経済学や法学、社会学などの知見によって判断し、解決するのではありません。日々の生活の中で培われる全体知=民知の力によるのです。専門知は、判断のための材料を提供するだけです。

このことは、少し反省してみれば誰でもすぐに分かります。社会の問題を例えば政治学者(専門家)が解決するわけではありませんし、ある法律の適否を法学者が決めるわけでもありません。その判断をするのは生活者の全体知=民知によるわけです。専門家は、判断のための資料づくりをしたり、過去の事例を整理して示したり、いろいろな人の見解を分かりよく紹介したりすること・・しかできません。なぜなら、専門知とは、部分の知であり、領域を狭く限定して精緻な言説を可能にする知ですが、「判断」というのは元来、総合的―全体的なものであり、全体知としての民知による他ないからです。次元、位相が異なる話なのです。

誤解なきように付け加えますが、専門知をたくさん集めても全体知=民知にはなりません。専門=部分の中で概念化し、精緻化していく作業と、全体を見ることとは、頭の使い方が根本的に異なるからです。部分の和はどこまでもいっても部分の和であり、全体像ではありません。

したがって人間や社会の本質的な問題を考えるためには、自然科学の探求仕方とは全く異なる方法が必要です。対象を対象として突き放して見る「客観学」的手法は無意味です。私という認識主体の観念のありようと共に思考する態度が不可欠です。まず何よりも先に求められるのは、主観性を主観性のまま掬い取るように見る直観=体験能力の開発ですが、それには、特定の見方・理屈によって枠付けをし、規定するのではなく、自他のありのままの心を知ろうとする日々の練習が必須です。「こうあるべきだ」「こうあらねばならぬ」という先入意識を排除して、心に浮かぶ事象を虚心に見ることです。

人間の認識のありようーその意味と価値についての原理を解明する「認識論」(現象学)を基盤にしなければ、理論は哲学(人間の生にとって意味のある知=恋知)にはならず、只の理論に留まるという理由は、人間や社会の問題は、認識主体である人間の観念、価値意識等の問題と深く絡まっているからです。(なお、「現象学」の最も優れた解釈は、竹田青嗣さんの一連の著作だと思います。ご参照下さい。)

ただ、ここで一つ注意しなければならないのは、この営みは、瞬間前の今までの意識=心を見ることですが、本来、人間やその社会について考え・知る主要な目的は、「未来に向かう今」についての見方をつくるためであり、そうである限り、ありのままの意識を知ろうとする営みは、あくまでそのために必要な前提作業だということです。目的をただ「知る」ことにおいてしまうと、受動性に支配され、生きた能動的な知の働きが抑えられてしまいます。要注意!です。人間や社会問題を考え、知ろうとするのは、知的興味に留まらない実践的な課題があるわけで、そのことを明晰に意識しなければ「知」は宙に浮いてしまいます。試験のためにだけ取り組むか、オタク的な趣味として取り組むかしかなくなるのです。

?・民知(恋知―全体知)の方法

では以下に、「民知」の方法について書きましょう。それを一言で言えば、「意味了解の反復・反芻」です。

民知とは、意識的な「学知」の世界につくことでも、無意識的な「身体性」の世界につくことでもありません。何がほんとうに「よい」ことなのか?-心身全体に深い納得がやってくるような考え=生活世界での思考と実践から生まれる「よい」につくことです。

個別の学知がもたらす「部分合理性」の世界の下に広がる広大な「人間性」の領野―生活世界の「よい」の基準は、五感全体による深い納得に基づくもので、その「よい」が「学知」を含むあらゆる事象を判断する最終根拠となるのです。これは「認識論」の原理です。

では、生活―経験に根をもつほんとうの「よい」はどのようにしたら得られるのでしょうか?「人間性」に応えるこの「よい」の世界は、行為であれ思索であれ反復・反芻することが喜びとなるような世界です。キーワードは「反復」です。反復に耐えうるまでに鍛えられた「知」は、無意識―身体にまで届き、それと融合する知、「部分合理性」を超えた知であると言えるでしょう。

単に概念的な知―言葉上の知にとどまらず、深く心身に届く知とは、意味了解の反復によってつくられる世界です。機械的な反復ではなく、意味を追いながらの反復には、豊かで確かな喜びがあります。それが知の上滑り=知が先立つこと=主知主義の厭らしさ=言葉上の理屈の世界を超え、知と心身・魂と肉体の統合を生み出すのです。
意味了解の反復に耐える確かな内容をもった考えや行為とともに生きることは、人生最大の幸せです。不動の確信―自信が自ずとやってくるからです。民知とは、直観=体験に基づく根のある知なのです。

専門知という部分の知は、なにかしらの特定の目的があって造られたもので、その目的を果たす限りもちろん有用な知ですが、それは、民知という全体知を深め広げることで生活者の役に立たなければ意味を失います。価値的に言えば、民知としての全体知が最上位にあるわけで、またそれは、個々の専門知の絶対の基盤ともなっているのです。
ついでに言えば、専門知に取り組む場合も、常にこの民知の方法を踏まえることが必要でしょう。学知(専門知)の追求をしている場合も、その意識の底を「全体の意味」がたえず通奏低音のように流れていなければ、その知は人間の生にとって無用なものになってしまいます。

武田康弘
(明日は三回目ー最終回です。)



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