思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

四者四様の感想ー「民知ー恋知と公共哲学」ー感謝です。

2005-09-30 | 教育

昨日まで3回に分けて発表した『民知ー恋知と公共哲学』を使っての授業=土曜日の「白樺教育館・ソクラテス教室」で、四人の生徒の方が感想文を書いてくれましたので、以下に載せます。


『民知-恋知と公共哲学』を読んで 中野牧人

 僕はタケセンの塾に通い始めて12年目になりますが、最近になってタケセンが言わんとしていることが分るようになってきました。塾に入ったばかりの頃は、タケセンの言葉の中の多くに違和を感じていました。「行儀なんてどうでもいいんだよ」(行儀は大切だーと教えられて、頭や心が固くなっていた幼いころの僕を見ての言葉だったのだと後になって分かりましたが、その時の僕にとってはかなりショッキングなものでした。)とか、「大学の哲学科に行くのはやめたほうがいい」転じて「日本の大学はどうしようもない」など、当時の僕には刺激が強いものが多くあって、違和感があったのだと思います。

最近になってようやくその言葉の裏に、「本当に大事なものは何か?」、「本当の学問もあり方とは何か?」という意味を読み取れるようになったのです。
 いま僕は、「タケセンの塾」を本当に勉強ができる場、「大学」を塾で得たものを何らかの形で表現していく場と位置づけています。予備校・大学の勉強は、それまで机に向かうことの少なかった僕にとってかなりの量の知識を与えてくれましたが、自分の芯にある考えかた、生き方といった基本にはほとんど影響がありませんでした。

対して、塾での毎週の勉強はその多くが自分の芯まで届き、同時に簡単に理解できるものではありませんが、確実に考え方、生き方に大きな影響を与えてくれました。塾での勉強は、予備校・大学の勉強にある狭さ(他のフィールドでは全く役に立たない!)がありません。広く、同時に深いためにあらゆる事を考える上で、基本になってくるのです。こうして、いま僕が考えている塾での勉強が、タケセンのいう哲学(恋知)であり全体知なのだと思います。
 
中野牧人 明治大学二年(21)
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「民知―恋知と公共哲学」を音読しての感想 成毛孝行

「偉い人」の言葉を信じるのではなく、深い納得をもたらす考えを自分の頭の中で創り出すことが「日課」になった。
書物の知はあくまでも一つの手段で、肝心なことは自分の頭で考えること。

この文を読んで、自分がどこかで引っかかっていたものが一つ取れた感じがした。
今の「教え」はどうも洗脳というか、動物のすり込み?みたいなものが感じられて嫌だった。でも、教えてもらっていることは間違っているわけでもないし、妥協するのも嫌だった。

全部を鵜呑みするのではなく、大切なのは自分の頭で考えること。自分なりの結論を出すように心がければ、たとえ結論を出すことができなくても、考えたことが自分を支える骨になるんだと気付かせてもらった。そういう行いをしなければ、女学生の質問にも答えることのできないダメ人間になってしまうのも深い納得をした。

成毛 孝行(22)家業の造園業の手伝いをしながらアルバイトで社会勉強中。
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民知‐恋知と公共哲学を読んで 中西準也

 初め、この文章の分量を見たとき、なかなかの長さだと思いましたが、読み終わってみるとさらに続きが読みたくなる内容の濃さと面白さでした。

 具体的には、“書物の知は、あくまでも一つの手段でしかなく、肝心なのは自分の頭で考えること”や“意味を探求しない「事実とやり方」だけの「知」には喜びや面白みがありません”や“情報が多ければ~死んだ頭‐紋切り型のパターン人間になってしまいます”などの実際に私たちが陥っているがよく考えれば納得でき、しかも「本質」を突いている所を中心に歓心を持って読み進められるため、そこから連なる「民知の方法~実践」まで強い関心を持ち続けたまま読み終わりました。

 本当に必要なことは「人間も含めた世界」をある視点で分析することではなく、そうした世界を生活レベルで分析すること、つまり、生活(日常)に即した上での物事の理解や判断であり、専門知主体の受動的な学習から、意味をつかむ生活に根ざした学習へ構造をシフトすることで、それが可能になるから「民知」の精神をこれから実践していきたいと思いました。

 中西隼也(21)青山学院大3年
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民知ー恋知の必要性 染谷裕太

民知―恋知という「知」のあり方は、現在の日本を根本から変えるのに不可欠だ、と最近特にそう思う。
税金、教育、靖国、様々な問題がある。以前はこういった問題を、それはそれとして捉えていた。「ソクラテス教室」の授業で「ほんとうのこと」を知るたびに、問題は複雑に絡み合っていて、どう考えたらいいのか?分からなかった。
けれども最近になって、民知―恋知の意味が少し分かってきた。そのせいか政治家や評論家のいう改革案は、小手先のものに過ぎないのではないか?問題の根っこはもっと深いととろにあるのではないか?と感じるようになった。
その深いところから変えていくには、どうしても、民知―恋知の考え方が必要になると思う。

染谷裕太(19) 東洋大学一年
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私は、以上の四者四様の感想をとてもありがたいものとして読みました。ますます民知の実践に勇気百倍!です。 武田康弘




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