金泰昌(キム・テチャン)氏から依頼された原稿・「民知―恋知と公共哲学」(11000字)を書き上げて、頭が疲労ぎみです。 「公共的良識人」紙の7月号に書いた民知宣言ー「出会いと民知と公共哲学」に続く第二弾です。
ボーっとしながら一言。
つくづく思うのは、日本人(だけではないでしょうが)の勉強好き?のマジメな人の頭=思考回路が二次元(平面)的だということです。
情報を多く集め、一見、整合的な理論をつくり、しっかりしているように見える。いろいろと考えていそうだ。専門知の知見を拠り所に「近代的自我」を持ち、自信もあるようだ。本もたくさん読んでいる。
でも、全部? 立体から見れば影に過ぎない「事実学」を積み上げているだけです。どこまでも平面の拡張に過ぎないようです。
それにしても、書き言葉は、どうしても平面になりがちです。なかなか難しいものです。というより、もともと「書き言葉」とは写真のようなもの。平面なので、工夫して元の立体を想起させることしかできませんが、ほとんどの人がそのことに無自覚なので、書き言葉に依拠した「インテリ」ほど文字世界に呪縛されて二次元世界に堕ちてしまうというわけです。
三次元の頭になる?ことは、可能です。変な教育を受けていない子どもは、三次元です。「なぜ?どうして?何のため?」と質問攻め!平面から見れば矛盾だらけーでも立体交差ならぶつかりません。 しかし、すでに自我意識を強くもつ大人の男性は、「一度死んでやり直す」ほどの覚悟が必要?「自我のよろい」ほど厄介なものはありませんから。「全身で思考する」練習をしましょう!
あなたも文字言語が偉いと思う「自我」の人?
「我」は強く「思考」は弱いのが日本人のようです。いやですね。
私は、堂々と「あっけらかん」と自分を主張することで、「マジメな底意地の悪い自我」を消去!という生き方をしています。自分の「存在」を深く肯定できれば、自他の幸福をつくらないいやらしい「自我」は消えます。(ついでに言えば、「天皇家」の存続を第一に考える!?というような想念は、極限化された自我主義ですー皆を不幸にします。)
存在感は強く、大きいーでも自我は弱い。そんな人間になりたいもの。
9月8、9日 武田康弘