思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民知ー恋知と公共哲学 第一回(今日から三日間連載)

2005-09-27 | 恋知(哲学)

民知‐恋知と公共哲学  武田康弘

(「公共的良識人」紙10月号の原稿です。長い(11000字)ので今日から3回に分けて載せます。)


?・私の原点―小学校の「政治クラブ」と胃潰瘍(この部分のみ9月4日のブログに発表んしましたが、再録します。)

私が小学5年生(文京区立誠之小学校)の時、初めて学校に「クラブ活動」が導入されました。社会問題に興味が強かった私は、友人と共にクラブ活動担当の先生に「政治クラブ」をつくってくれるように頼み、実現しました。

そこでは「日本国憲法」と「大日本帝国憲法」の比較や、アメリカ合衆国とソビエト連邦との違い、優劣等について学び、考え、議論をしました。私は、新聞の社説を読み、政治談議をする小学生で(笑)、日本も政権が交代する二大政党制にならないと民主主義とは言えない、などと生意気な主張をしていたものです。6年生の最後のクラブでは、人間の幸福とは何か?のテーマで話し合いましたが、アランの幸福論などを前にどうにも整理がつかなかった思い出が残っています。もう40年以上も前のことです。

社会科の勉強は算数と共に大変好きで、知識はたくさん持っていましたが、しかし、いくら調べても考えても、「ほんとう」のことは、少しも分かりませんでした。日本は、「天皇主権の国家主義」の社会から人間の自由と平等に基づく「民主主義」社会に変わったというけれど、天皇家に生まれた子どもは、どうして生まれながらにして特別待遇なのか? 世襲の一人の人間がなぜ私たち全員を統合する象徴なのか? なぜ、天皇という一人の人間の死で「時代名」まで変わってしまうのか? 法の下の平等という憲法14条との関係はどうなっているのか? 旧・憲法下では、主権者で、軍隊の統帥権を持ち、その軍隊は「皇軍」と呼ばれ、現人神(あらひとがみ)であった天皇が戦争責任をとらない!とは一体どういうことなのか? 図書館の本で調べても、先生に聞いても腑に落ちる答えはどこにもありませんでした。

分かったことは、大人は少しも「ほんとう」のことは考えていない、ということです(笑)。そういう本質的な問題については何も考えず、何も知らなくてもテストでは100点を取れることも学び?ましたが、私の場合は、父が私の質問に乗って、一生懸命に「問答」をしてくれたことが幸いでした。「考える」ことは、ワクワク・ドキドキする悦びでした。
どの科目も、ただの「がり勉君」になれば、好成績が得られることも体験から知りましたが、そういう面白みのないインチキな勉強はすぐにやめました。自分がニセモノの人間になっていく、と感じて心がとても苦しかったからです。

多感で神経質、集中力の強いストイックな性格のせいでしょうか、5年生の後半から私は胃潰瘍を患い、その後十二指腸潰瘍となり、以後20才まで長いこと苦しめられました。しかし、がんの疑いから胃カメラを使っての検査もした「闘病」は、死への恐怖から「生きることの意味」を問う心を育てました。いわゆる「偉い人」の言葉を信じるのではなく、深い納得をもたらす考えを自分の頭で創り出すことが「日課」になったのです。だから私は、哲学史上の「実存主義」とは全く無関係に、はじめから実存主義者でした。

いまに至る私の「知」の探求仕方は、この時決まったようです。書物の知は、あくまでも一つの手段でしかなく、肝心なことは自分の頭で考えること。自分の目でよく見て確かめる実践的な思索こそがほんものであること。「試験知」に乗った学者や批評家としてではなく、深い納得を求めて生きる「思考する一人の人間」としての生を貫くこと。

その後、大学で「哲学」に集中的に取り組むようになってからは、西周(にしあまね)によって無粋な訳が与えられてしまった「哲学」-philein(恋する)sophia(知)、本来は『恋知』と訳される言葉の初心に帰ること=キリスト教という一神教誕生後の「ヨーロッパ」哲学以前のギリシャのソクラテスが提起した『恋知』(「パイドロス」の後半を参照)を貫くことが何より大切、そう考えるに至りました。

? なぜ?どうして?何のため? 教育の核心は、考える力をつけること

 ごく最近の話ですが、「談合はなぜいけないのですか?」というある女子学生の質問に、日本の高名な政治学者で法学者の大学教授は、「それは法律で決まっているからです。」と答えたということです(笑)。わが我孫子市の中学校の教師が、「なぜ、ワンポイントがある靴下は禁止なのですか?」という生徒の質問に、「校則だからです。」と答えたのと同じですが、こういう本質とは無縁な、意味のない形式的な言説を吐く人が教師では、間違いなくこの社会は終ってしまいます。まるで昆虫社会!

 いまの日本は、情報と反射神経で動く生きる悦びを持てない人間が増え、濃やかな抒情や深く大きな思索力とは縁のない社会になっています。あるのは学歴と肩書きによる序列意識だけ。内容空疎で、悦びがありません。

なぜ?どうして?何のため?という意味の探求を放棄した只の「事実学」に依拠した社会は、人間を幸福にしないのです。これは原理です。私は、「知」の基本形は「恋知」(わたしの造語では「民知」)だと確信していますが、それは、幼い子どもたちの「なぜ?どうして?」という初発の問いにつくことから生まれます。

 以下に、私のブログ・「思索の日記」に発表した「なぜ?の意味論(民知―恋知)が人間をつくるー実存の源泉」を載せましょう。

 ?なぜ?という問い

 幼い子供は、なぜ? どうして? とうるさいくらいに問いを発します。
そのとき、大人がどういう態度をとるかで、子供の未来は大きく変わります。
なぜ? というのは、言うまでもなく「意味」を問うことです。
ただの知識―事実ではなく、その事実には、一体どんな意味があるのか?を知りたいのです。

 何より大切なのは、そのとき大人が、子供の問いに対して一緒に考えようとする態度をもつことです。答えられなくてもいいのです。「不思議だね?」とか「なぜだろう?」と一緒に考えようとすることが、人間的なよき心と頭を育てるための条件です。

 でも、残念ながらわが日本の現状は、そうはなっていません。むやみに「もの」を与えるのと同じように「事実」―「知識」を与えてしまいます。「なぜ?」を共に考えることをしません。問い=疑問・質問を喜ぶ態度が見られません。しばしば嫌な顔をして「問い」を遮り、上からの決まり文句で終わりにしてしまいます。考えることを一緒に楽しむのではなく、やり方と答えばかりを教えようとします。手っ取り早く覚えさせることを知育だと信じています。

 こういう環境で育つと人は、答えばかりを求めるようになります。日本では問いと答えを繰り返す「対話的思考」が育ちません。哲学までも「問い」ではなく「正解」!?の集合になってしまいます。「できること」や結論だけに関心が行き、考えるプロセスと答えがひとつの全体をなしていることを理解している人は少ないのです。いつも目先の「正解」ばかりを求めるために、薄っぺらな世界しか与えられません。

 意味の探求をしない「事実とやり方」だけの「知」には喜びや面白みがありません。
「なぜ?」「どうして?」という子供の初発の問いにつくこと、
それが人間の心と頭の底力ー実存の魅力を生み育てる源泉になるのです。

 ?自我=自芽の成長

「なぜ?」「どうして?」という意味論ぬきの「事実学」の積み上げは、人間の生からエロース、喜び・悦び・歓びを奪って、つや消しの世界を生んでしまいます。「人間を幸福にしないシステム」の大もとは「意味論」(民知―恋知)の欠如にあるのです。

 生きるよろこびとは、自分の世界が広がり・深まることですが、自我の成長がないと外側の価値に振り回される生き方しかできなくなります。存在そのものの成長・魅力ではなく、知識・履歴・財産の所有を追いかけるだけの人生に陥ります。

 では、どうしたら、自我はよきものとして成長するのでしょうか?
私は、自我を「自芽」と考えるとよいと思います。自分という芽は誰にでもあるわけですが、自芽が豊かに生育し、花を咲かせ、実をつけるためには、内的なエネルギーが必要です。外側から弄(いじく)れば、芽は枯れてしまいます。意味論なしの「事実―知識」の注入は、根腐れをおこさせ自芽を生育させません。自芽の成長の条件は、「なぜ?」「どうして?」の意味論=内的エネルギーにあるのです。

 意味論(民知―恋知)がなく、事実学だけという精神風土の中では、情報が多ければ多いほど、学歴が高ければ高いほど、本を読めば読むほど、死んだ頭―紋切り型のパターン人間になっていきます。ほんとうには何も見えず、何も分からず、ただ言葉上の理屈だけで生きる人生に陥ります。現実問題の現実的解決とは無縁な実力のない「口先人間」にしかなれません。

 中身の豊かさ、魅力、意味充実の世界への扉を開くこと=自芽が成長・開花する条件は、「なぜ?」「どうして?」という意味を問う全体的な知の探求にあるのです。それを私は、民知(恋知)と名づけています。


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