以下は、公共哲学ML内のメールです
武田さま、そして皆さま
2005年と2006年の境にこれを書いています。
「深く人の心を捉える豊かな主観をどう形成できるか?」
武田さんのこの問いに、共感しました。
このところ、主観性の問題にぼくなりに、悩んでいました。
それで、以下のような「主観的」という言葉についての《主観
的?》な思いを綴ってみました。
今年も宜しく。 H
(この後は長文なので割愛し、私の返信のみを以下に載せます)
「戦争は、人の内面を0にする」(H)
権力主義の政治、も同じですが、実存が先立つという原理を担保するための構造=社会は、いかに可能か?それこそが、真に「社会に関する学問」=「公共哲学」に課せられた使命だと思います。だからこそ前提として主観の構造の原理的解明=認識論が必須のものとして要請されるわけです(武田の「民知―恋知と公共哲学」(クリック)は、キム・テチャンさんから「公共哲学」の不足点・問題点を書いてほしいと要請されて書いたものです)。
Hさんのおっしゃるとおり、内面世界の豊饒化はすべての前提です。
「生は、主観としか捉えられない。ぼくたちの裁判で、『どんなに主観的に深刻であろうとも、苦痛は受忍すべき』などと書くのは、裁判官自らが、自分のうちに「クオリア」として立ち現れてくるこの「生命世界」を否定しているようなもの」(H)
まったくその通りだと思います。
総体として「近・現代社会の思想」は、強い一神教の「超越的な真理」という発想が「客観的真理」と名を変え、科学の名の下に各人の「主観」を価値の低いものとみなして抑圧し、そのことから派生するおぞましい「悪」を再び客観学の方法=思想で是正しようとする矛盾の拡大循環に陥っている、と武田は見ています。息の詰まるような管理社会を生み出しているのは、「客観的真理」という名の悪霊=妄想なのです。
「近代科学」も深まれば、己の領分を明晰に知る(わきまえる)ことになるはずです。部分の知と全体判断とは、次元の異なる話ですから。武田は、全体知=心身全体での会得=深い納得の知をそれとして追求するために「民知」という思想=実践運動をしています(今年春には民知協会(仮称)を正式に立ち上げます)。
「甲府地裁の判決文が、如何に心というものに無知であるか、またそれが、ぼくをそして裁判官自身をも病気にするものであるかも分かるのである」(H)
同感です。ほんとうにそうですね。
Hさんの紹介された本「心を生み出す脳のシステム」(NHKブックス:1070円)と「脳内現象」(NHKブックス:970円)は、読んでいませんが、15年ほど前に私の研究会で取り上げた滝浦静雄著の「自分」と「他人」をどう見るか(NHKブックス)と通底する内容だと思いました。こんど見てみます。
では、今年もよろしく。
武田康弘