武田 様
金先生のお話、身に染み入りました。以前、武田先生と[対話と文字(書かれたもの)]についてメールのやりとりをしたことがありました。あの時、対話を重視する必要からなのかしらと思うほど、書くことに冷淡なご意見を見て、違和感を持っていたのですが、金先生の靖国問題に関するお話はスーと身に浸みました。つまり[ 百聞は一見に如かず]、つまり「見」は文字も含むのかもしれないと思いました。でもこういうこともあります。見た目もパーとしないし、話し下手、ところが書いたものを読んではじめてそのひととなりがわかったなんてこと、あります。その人の自己表現はその人にいちばんふさわしいあり方があるのではと思うのです。見た目の好感度高く、書いたもの、話もよくできる、しかし、こういうことをする人とは思わなかったということもありますものね。五感、第六感などということ大切にしたほうがよいということをフィロソフィする必要があるのでしょう。
ではまた USAKO
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USAKOさま。
武田です。
私は、たしかに書くことに「冷淡」かもしれません。どうもすみません。ただし、毎日書いています(笑)。
もう少していねいに言えば、書くことで逃げを打つことは許さないぞ!(きつくて失礼)という意味での「冷淡」な姿勢です。
この社会が、日々の生きた生々しい具体的経験を軽んじ、「書かれたもの」に権威を与えていることは事実だと思います。その中で、全身で感じる力が鋭く強くても、文字的思考や表現を得意としない、または嫌う人の声は不当に低く評価されてしまいます。書き言葉を、いまの生きた現実よりも上に置くという価値意識があるとすれば、不健全だな、不幸だな~、と私は思っているわけです。書き言葉を権威化させてしまうと生の悦びを押さえてしまい、損だ。悦びを広げるように、上手に書き言葉を利用しようよ!書き言葉を現実の生を助けるよきアイテムになるように、「得」を生み出すように遇するようにしようよ。私は、そう考えているわけです。
書くことを得意とする人、または、書くことでしか自分を表現できない人を尊重しない、というのではありません。今までの社会では「書き言葉が偉い」という価値観が強いために、わざとその「危うさ」を強調している、というに過ぎません。
書き言葉の方が優れている点も多々ある、また書く作業によって思考が明晰になることも確かだと私は考えています。だからこそ皆に「書かせる」授業もし、書くことを奨励してもいるわけです。
私も「思索の日記」をはじめ、いろいろ(頼まれ原稿を含めて)書いている、毎日、メールも書いているわけです。
ただ問題は、書くことで解決したと思い込んだり、またさらに、批判的ないしは弁証法的思考の訓練をして、そういう種類の言い方ー言語使用をすれば、何事かがなし得るという信仰は困ったものだなあ~、かえって納得をつくること、合意や妥当を生み出すことを阻害してしまう。広い意味での「考える」というエロースが消されてしまい、みんなが民知や恋知のよさ=面白さを体験しつつ社会(世界)をつくっていくことにはならない、そう思うのです。
それでは「よい」ことをしようとして、かえって不幸を生みだすことになってしまう。自他のありのままの意識を掬い上げる方法は、試行錯誤で少しづつ互いの納得のもとに絶えず変容させていくもの、そうした臨機応変、当意即妙の自在の精神に支えられてはじめて「人間的なエロースの生」は可能になる。特権者はいない、、おっと、
話がズレてきましたので、このへんでお仕舞いにします。失礼。
いつもよいご指摘をありがとうございます。
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武田 様
USAKO
お忙しいのに、あれだけ書いていただいて、恐縮いたしております。自分のを読んで、舌足らずであったと気がつきました。
文字(書かれたもの)は、「百聞は一見に如かず」でいうと、「聞」にもなるし、「見」にもなるということを言いたかったのです。文字(書かれたもの)に対する気迫溢れるお言葉(書かれたもの)はよく伝わりましたよ。なにか、私が書いて済ましていると思われているのかなと思ったり
するくらいにネ。
人が恋をしたとします。そのことを人に話したり、書いたりしても「ゴチソウサマ」と思われるだけの場合があります。しかし、すぐれた文学作品に接したとき、その想いが自分の実感と重なって共有できることがしばしばあります。文学というジャンルには、(書かれたもの)のなかにこのような魅力をもっているものがあります。この(書かれたもの)をそのようにしてしまう力量のようなものをフィロソフィに求めることはむりなのでしょうか。こんなことを考えてしまいます。
お返事は今後の先生の作品のなかに反映していただければうれしいかぎりです。
お風邪など召しませんように。
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USAKOさま。
武田です。
具体的にことが進んでいるとき(成果が得られているとき)、そこでの思考―言葉の進展は、なかなか「作品」にはならないですね。恋愛も、関係がうまく進んで愉悦の時間が流れているときには、その有様は「文学作品」にはなりません。終わったあと、挫折した時にはじめて「作品」成立の可能性が出てくる。
作品ならざる作品の新しい世界を開拓する、従来とは異なる異次元の領域を拓くことができれば確かに面白いし、有益だと思います。それは図ってできることではないでしょうが、新しい知や学を生み出す実践の中で、常識を打ち破る作業の中で、もしかしたら思いもよらない文字―活字世界がつくられるかもしれません。そうなったら凄いですね。ワクワク・ドキドキ、ウルトラC、D、E、F、G・・・恋知のエロースが天上より降り来たる!!!!
分かりやすくて、面白くて、カジュアルなのに高品位、親しみいっぱいで、華があり、精緻にしてラフ、優美にして最強、、、、、
どんどん脱線していきそうですので、このへんにしておきます。
では、また。失礼。